3-6.強大な新政府軍本隊とぶつからなかった幸運
奥羽越列藩同盟に参加した多くの藩が、初めから新政府軍の強大な武力に直面したのに対し、日本海側に位置する庄内藩はその圧迫をあまり受けませんでした。
さらに周囲は秋田藩、新庄藩、天童藩といった列藩同盟を裏切った勢力が多く、戦いの初期はそれらの勢力と当たることになりました。最新鋭の武装を持つ庄内藩に比べれば、旧式装備しか持たない彼らは庄内藩の敵ではなかったといえるでしょう。
しかし列藩同盟諸藩を次々に下した新政府軍の本隊が庄内藩へ向かってくると、さすがに余裕はなくなりました。特に優れた装備を持つ佐賀藩や薩摩藩といった勢力が強敵となったのです。精強を誇る庄内藩ですら徐々に押され、一進一退の攻防を繰り返しました。
もし初めから強力な新政府軍とぶつかっていたなら、堪え切れずに敗退していたかも知れません。
庄内藩強さの秘密のまとめ
本間家など豪商からの支援があり最新鋭の武器を備えることができた。
優れた戦術眼を持った指揮官の存在。
自由な教育の元に自主独立性があった軍隊
領民の積極的な協力
新政府軍と最初からぶつからなかった幸運
現在に息づく庄内藩の心意気
戊辰戦争後、やがて庄内藩の人々は刀を鍬に持ち替えることになりました。戊辰戦争を共に戦った有志3千人が集まり、松ヶ岡の地を開墾して養蚕という新しい産業を興したのです。賊軍の汚名を着せられて莫大な額の賠償金を支払わされながらも、地元のため、そして新しい産業を興すために、再び立ち上がったことに「庄内の心意気が表れている」といえるでしょう。現在も鶴ヶ岡城や藩校致道館、松ヶ岡開墾場、本間家旧宅などに当時の面影を偲ぶことができます。
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