日本の歴史江戸時代

江戸後期の復興請負人「二宮金次郎」はどんな人?元予備校講師がわかりやすく解説

生家再興の元手づくり

金次郎はなんとか実家を再興しようと、そのための元手を作ろうと考えました。最初に行ったのは薪取りのアルバイトです。アルバイトの最中も本を片時も離さなかったといいます。

また、田植えの時に余って捨てられていた苗をもらい、土手付近の用水路に植えました。すると、秋には米俵1俵ほどの収穫となります。

1804年に親族の岡部家に、1805年に名主で親族の二宮家に寄宿しつつ資金を蓄えました。この時には20俵の米を手に入れています。

1806年、金次郎は荒れ果てた生家に戻りました。各所でアルバイトなどをして稼いだお金を元手にし、家を修復。質入れしていた田畑を徐々に買い戻します。

また、買い戻した田畑の一部は別の農民に小作地として貸し出し、収入を得ました。そして、20歳のころ、金次郎は失った屋敷と田畑をほぼ再興するのです。

金次郎が生家を再興できた要因は何か

二宮金次郎は幼いころに田畑を手放し、ほぼ無一文の状態になってしまいました。そこから、20までの比較的短期間に生家を再興できたのはなぜでしょうか。その理由の一つは、彼がアルバイトなどにより積極的に現金収入を得ていたことにあります。

江戸時代の後期は貨幣経済が農村にまで浸透していました。そのため、農村でも子守や薪取りなどのアルバイトがあり、現金収入を確保することができます。しかも、現金の場合、農作物と違って貯蓄することができますよね。

金次郎は稼いだお金の多くを少しずつ積立貯金していたといってよいでしょう。小さな努力を積み重ね、大きな収穫や発展に結びつけることを積小為大(せきしょういだい)といいますが、金次郎による生家の復興は、まさに、積小為大の賜物だったのです。

復興請負人となった二宮金次郎

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若くして成果を再興させた金次郎の評判は近隣に広まりました。その評判を聞いた小田原藩家老の服部家が家の財政再建を金次郎に依頼します。金次郎は依頼に応え服部家の財政を再建しました。評判は藩主にまで伝わり、小田原藩主大久保忠真は金次郎に小田原藩の分家が所有していた下野国桜町の復興を命じます。

服部家の財政再建

生家の再興に成功した金次郎は、見聞を広げる目的もあって小田原藩の家老服部家に奉公に出ます。金次郎が仕えた服部家の財政は火の車で破綻寸前でした。金次郎の才能を知った家老の服部十郎兵衛は家の財政再建を金次郎に委ねます。

金次郎は、農民の自分が武士の家の財政再建など恐れ多いと辞退しますが、十郎兵衛は必死に頼み込みました。ついに根負けした金次郎は5年の間、口を出さないことを条件に依頼を受け入れます。

金次郎は服部家の実情を徹底的に分析。金次郎は火の通りを工夫してかまどに使う薪を削減することや一汁一菜の質素な食事、衣服は簡素な木綿にするなど徹底した倹約を実行しました。

また、予算よりも削減に成功した奉公人には報奨金をだすなど、スタッフのやる気を引き出します。その結果、5年で服部家の借金は完済。おまけに、300両の貯蓄まで生まれていました。

桜町領復興のはじまり

服部家の財政再建に成功した金次郎の手腕は、小田原藩主大久保忠真の耳にも届きます。このころ、日本中の多くの藩で財政がひっ迫。小田原藩も例にもれず厳しい財政事情でした。

特に小田原藩の重荷になっていたのが分家である宇津家の所領である下野国桜町領です。忠真は金次郎に桜町領の復興を命じます。

桜町の状況は想像以上に悲惨でした。農民はやる気を失い昼間から酒を飲み、博打にふけっています。金次郎は服部家の場合と同じく、現状の把握と荒廃の原因を探りました。

その結果、桜町領に課された年貢があまりに重く、農民たちのやる気を奪っているとの結論に達します。金次郎は忠真に10年間の年貢半減を提案。忠真もこれに応じました

復興の条件を整えた金次郎は農民たちを集め、改革に乗り出します。仕事に熱心に励んでいるものには褒美を出し、やる気を引き出そうと努めました。

金次郎、突然の失踪と改革の成功

金次郎の改革で桜町に光が差したかに見えましたが、長くは続きませんでした。金次郎の改革を快く思わない者たちによる妨害が始まったからです。またしても、やる気をそがれた桜町の農民たちは気力を失い始めました。

そんなとき、金次郎は忽然と桜町から姿を消します。金次郎は農民たちに黙って桜町を出て、成田山新勝寺で断食行を行いました。

金次郎が姿を消した桜町では状況が日増しに悪化。農民たちは焦り、必死に金次郎の行方を捜します。金次郎が成田山新勝寺にいると知った農民たちの代表は成田山まで赴き、金次郎に村に戻ってもらうよう願いました。

金次郎は桜町に戻り、改革の第二弾が始まります。金次郎が次に打った手が報徳金の創設でした。皆でお金を出し合い、お金が必要なものに対して無利子で融資するための基金です。

返済不能の時は、仲間がかわりに返済するとしました。これにより桜町の多くの農民が土地を取り戻しやる気を出します。改革開始から10年後、桜町領の収入は金次郎が当初想定した収入量の倍にまで増加。貯蓄さえ生まれていました

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