因島村上氏と来島村上氏
村上海賊の勢力範囲を地図上で見ると、最も広島県寄りにある島が【因島】、最も愛媛県寄りにあるのが【来島】だということがよくわかります。彼らは独立性を保ちながらも強い勢力に従属し、家の安泰を図っていったのでした。
因島村上氏は海運事業に従事する傍ら、海外貿易にも積極的に乗り出して最盛期には石高換算で15万石もの勢力を保っていたといわれています。そしてまだ安芸国(現在の広島県西部)の一領主に過ぎなかった毛利元就に早くから臣従し、小早川水軍の指揮下に入りました。
来島村上氏は早くから伊予国主河野氏に臣従しており、謀反を起こした重臣を次々に討伐するなど活躍していたそうです。特に村上通康は河野氏の柱石とされるほどの人物で、主君の河野通直から家督を譲られるほどの存在でした。周りの重臣たちの反対で実現こそしませんでしたが、攻め寄せてくる大内氏の水軍をことごとく打ち破り、その武力の程を見せつけたのでした。
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その男「村上武吉」
村上三家の頭領的立場だった能島村上氏の本拠地は、瀬戸内海のちょうど中間点に位置していて、戦国時代はどの勢力にも属していない正真正銘の独立勢力でした。そして海の戦国大名と呼ぶにふさわしい全盛期は、一人の男によって築かれるのです。
その男の名は村上武吉。嫡流でなかった彼は、亡き村上氏本家の嫡男と家督を争い、ついに勝利して能島村上氏の実権を握りました(能島騒動)。小説「村上海賊の娘」の主人公【景】の実の父親ですね。
時勢を見極めて有利な条件の方に味方するという姿勢を貫き、大内氏に味方したかと思えば、今度は河野氏に味方するといった具合で、瀬戸内海を舞台にその存在感を大きく示したのです。その動員兵力は1万ともいわれ、激しい潮流に囲まれた能島城といい、まさに戦国大名級の武力を誇っていました。
彼自身は来島村上氏の長女を娶った以外は側室も置かず、嫡男元吉と次男景親が生まれました。ちなみに妻を亡くしたあと、今度は来島村上氏の次女を娶ったそうです。よほど同族の縁を大切にしたのでしょうか。
村上海賊たちの活躍を描いた歴史小説【村上海賊の娘】
村上海賊の娘(一) (新潮文庫)
Amazonで見る女でありながら抜群の戦闘力と胆力を兼ね備えた村上武吉の娘「景(けい)」。彼女を軸に毛利氏の傘下となった村上海賊たちが、織田信長に対して戦いを挑んでいく戦国活劇です。
戦国の海の戦いとはこういうものだと納得させられる合戦シーンや、両軍の息を飲むような駆け引きなど見どころが満載ですね。やはり映画化が待ち望まれる大作になっています。
そしてついに毛利の傘下へ
By Alex K – http://uk.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Murakami_suigun-boyovyi_korabel.jpg, CC 表示-継承 2.5, Link
どの勢力にも属さない能島村上氏に、ついに決断の時がやって来ます。新興勢力に過ぎない毛利氏になぜ味方したのか?なぜ傘下に入ったのか?謎は深まりますが、その決断がやがて村上海賊を歴史の表舞台へ引き出すことになるのです。
厳島合戦で毛利氏の味方となる
主家の大内氏を滅ぼし、周防・長門などを支配する大勢力となった陶晴賢。対するは安芸を統一したばかりの毛利元就。両者の激突は1555年に「安芸の宮島」で有名な厳島で行われました。村上三家は毛利家に味方します。しかしなぜ不利なはずの毛利側に付いたのでしょうか?実はその理由には伏線がありました。
村上氏の子孫、村上喜兵衛が江戸時代に書いたという「武家万代三島海賊日記」の記述によれば、1551年、陶氏が将軍家への進上米を30艘の船に積み込んで瀬戸内海を航行していたところ、能島村上氏の関衆に対して鉄砲を撃ち込んで無理やり通行しようとしたそうです。
村上武吉は大いに怒り、自ら陣頭に立って陶氏の船団を殲滅した上、積み荷を全て没収してしまいました。大内氏の時代から帆別銭(関銭)の徴収の権利を認められていた村上氏にとっては当然の行為をしたまでで、文句を言われる筋合いはありません。
しかし陶晴賢は一切聞く耳を持たず、村上氏が持っていた関銭の徴収権を丸ごと没収してしまったのです。武吉は陶に対して深い恨みを残すことになりました。
やがて陶軍と毛利軍の合戦が不可避になると、双方の陣営から味方をするように。という誘いを受けますが、結局武吉は毛利方に味方しました。毛利方から勝利の暁には屋代島(現在の周防大島)を与えるという約束を取り付けたことと、やはり陶に対する恨みがよほど根深かったためだったのでしょう。
村上三家とも毛利の陣営に馳せ参じることになりますが、結果は歴史が証明しています。この戦いで陶の大軍を破った毛利氏はその後飛躍を遂げ、中国の大大名として君臨することになりました。
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向背定かならぬ村上武吉
厳島の戦いにおいて毛利方に馳せ参じ、以後は毛利の傘下に入るかと思われた能島村上氏でしたが、やはり当主武吉はくせ者でした。
1569年、北九州の戦国大名大友氏と戦っていた毛利氏は、山陰地方の尼子氏残党が決起し兵を挙げたとの報を受け、腹背から圧迫されて苦境に陥りました。この時、先着した来島村上氏が戦っているにも関わらず、武吉は船を動かさずに傍観。おそらくは「九州に展開している毛利勢は撤退するだろうから、今のうちに大友に付いた方が無難」と計算したのでしょう。
この動きに毛利氏や来島村上氏は激怒。能島と来島の両村上の間で戦いが繰り広げられました。結局翌年に起請文を交わして和睦し、元のさやに収まるかに見えました。
ところが何を不満に思ったのか武吉は再び毛利に背きます。大友氏や備前の浦上氏と結んで敵対しますが、小早川隆景が因島村上氏と来島村上氏を動員して補給路を遮断し、本拠地の能島まで完全に包囲されてしまうに及んで武吉は毛利に降るしか道はなくなりました。
この一連の騒動の中で毛利の実力が骨身に沁みたのか、これ以降の武吉は二度と毛利に歯向かうことはありませんでした。
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