平安時代日本の歴史

瀬戸内海を支配した海の武士団「村上海賊」とは?歴史系ライターが解説

村上海賊の運命を変えた石山合戦

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 05:26, 16 February 2009 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

毛利氏の傘下となった村上海賊たちにとって、次なる敵は強大な勢力を誇った織田信長でした。この織田との戦いを通じて村上海賊たちの運命が変転していくことになったのです。

村上海賊の実力を知らしめた戦い【第一次木津川海戦】

信長と敵対して畿内を追われた最後の室町将軍足利義昭が庇護を求めたのが毛利氏でした。織田氏との対決が避けられないと見た毛利氏は、当時織田軍の攻勢に晒されていた石山本願寺の支援に乗り出すことに。

1576年、村上三家合同の輸送船団は大量の武器兵糧を積み込んで大坂へ向かいます。船団の総大将はもちろん村上武吉でした。必然的にそれを阻止しようとする織田水軍との間で一大決戦が開かれました。世にいう【第一次木津川海戦】ですね。

海上での戦いに慣れた村上海賊たちは、縦横に戦場を漕ぎ回って攻めかかりました。1793年に編纂された野島流船軍筆記の中にある「野島流船軍備之図」によれば、中央に旗艦となる大安宅船、それを取り囲むようにして小型安宅船関船が配置され、前衛や周囲には小早(こはや)という小舟が大量に置かれていました。

小早は防御性こそ低いものの高速で旋回性が良く、弓鉄砲だけでなく焙烙まで用いて敵を攻撃できる船です。その圧倒的なスピードに付いていけず、織田方の船は有効な手段も取れないまま次々に炎上。最後は全滅に近い形で敗北を喫したのです。

村上海賊の敗北【第二次木津川海戦】

一度は村上海賊に敗れ苦汁をなめた織田軍でしたが、その後の対応は素早いものでした。まず織田側は結束の固い村上海賊の切り崩しに掛かります。その作戦が功を奏して村上海賊の組下だった塩飽衆を味方に引き入れることに成功。次いで小早の連続攻撃にもビクともしない大型鉄甲船の建造を、同じく海賊出身の九鬼嘉隆に命じます。

1578年、再び石山本願寺救援のために船団を催した村上海賊と織田水軍との間に戦端が開かれました。防御力の高い6艘の鉄甲船は鉄砲や焙烙の攻撃を受けても微動だにしません。逆に鉄甲船から放たれる大筒の集中砲火を浴びた村上海賊はあえなく敗北。織田軍との実力の差をまざまざと見せつけられたのです。

この海戦で自信を得た織田側は、毛利氏の勢力分断を図って村上海賊を籠絡しようとします。しかし毛利氏もそれを察知して防御工作に勤しみ、織田と毛利の狭間で村上海賊を巡る謀略戦が展開されました。

一度は毛利氏を見限った能島村上氏と因島村上氏は、毛利の説得に応じて帰参。しかし来島村上氏だけは頑として拒否したため、能島と因島から攻められることになりました。来島の当主通総は攻勢を支えきれずに逃亡。結局は本能寺の変後に政権を掌握した羽柴秀吉の元へ奔ったのです。

村上海賊たちの終焉

羽柴秀吉が天下を掌握すると、村上海賊たちを取り巻く環境も激変していきました。秀吉と和睦した毛利氏はその後四国征伐に参加し、この時に来島を追われたはずの通総が武功を挙げて独立大名として復帰しています。

ちょうどこの頃から、秀吉政権の施政方針によって村上海賊たちは本拠地を割譲して内陸へ引き移ったとされていますね。能島村上氏は竹原(現在の広島県竹原市)から名島(現在の福岡市)へ、因島村上氏は鞆の浦(現在の広島県福山市)といった具合です。

1588年、瀬戸内で海賊事件が発生したことを発端に秀吉は海賊禁止令を発布しました。ところが村上武吉の息子元吉が禁に違反して海賊行為をしていたことが露見。秀吉の大きな怒りを買うことになったのです。武吉父子は毛利氏の取りなしのおかげで切腹だけは免れましたが、一切の海上特権を剥奪され、海賊としての村上氏はここで終焉を迎えたといえるでしょう。

その後、朝鮮出兵などで村上氏が水軍を率いて活躍する場面もありましたが、彼ららしい自由闊達な振る舞いをすることはありませんでした。また伊予復帰を悲願として関ヶ原合戦の折には能島・因島の両村上氏が伊予侵攻を企てますが、あえなく敗北して失敗。最後は毛利の船大将として命脈を保つだけになったのです。

秀吉から特別に気に入られた来島村上氏は独立大名として生きながらえますが、関ヶ原合戦では西軍に加担したために転封を余儀なくされ、九州の山深く日田の地で終焉を迎えました。

平和な時代と共に消えた海賊たち

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戦国乱世を生き、歴史にその名を刻んだ村上海賊でしたが、平和な時代と共にその本来の姿を消していきました。しかし海賊の子孫たちは平和な時代にあっても海賊としての誇りを胸に生きてきたのではないでしょうか。瀬戸内海沿岸に無数に残る造船所がその心意気を現在にまで伝えているのですから。

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明石則実