3-3家康による真田征伐
長男信幸が上田城二の丸へ徳川軍を押し込み、身動きを取れなくして鉄砲や矢で攻撃したのです。慌てふためく徳川軍は城門から逃げ出しました。でき立てホヤホヤの上田城の事を知らない徳川軍の完敗です。前もって町人たちを避難させた昌幸は、城下町に火を放ち、更に打撃を与えました。徳川軍の死者は1,300人に対し、真田軍は40人足らずだったとか。
昌幸の力を恐れた家康は真田征伐を断念し、豊臣への臣従を考えます。真田征伐(第一次上田合戦)で家康に勝利した昌幸は、信濃の独立勢力として周知させました。
ちょっと雑学
「表裏比興の者」とは、「くわせもの」という意味。野次っているようですが、秀吉が昌幸を「常人の思いも及ばないうまい計略家」と認めた褒め言葉です。
4.昌幸の人生を決めた秀吉への臣従
次に臣従する相手を秀吉と決めた昌幸は、上杉を通して謁見しました。上杉に人質に出していた信繁を、秀吉に差し出します。これは、天下分け目の決戦関ヶ原の戦いに通じ、昌幸の人生を大きく決定づけました。
4-1秀吉の天下は目前!家康の次は秀吉だ
「家康はもう秀吉につくしかない。秀吉の天下は決まりだ。」といい、上杉を通じて秀吉に臣従しました。上杉の人質だった信繁を豊臣家へ差し出します。信繁が秀吉の寵愛を受け、重臣大谷吉継の娘と結婚したことで豊臣政権と深い縁を築けました。
翌年に家康が秀吉に臣従し、昌幸は秀吉の命で家康の配下に。沼田城は守れませんでしたが、代替え地として伊那郡箕輪領を獲得しました。小田原征伐の後、家康は牽制され、関東へ追いやられます。その時、沼田領は長男の信幸に与えられ、昌幸から独立し家康の大名となりました。慶長3(1598)年に秀吉が伏見城で永眠します。
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4-2目に余る家康の行動に三成挙兵
家康が豊臣を攻撃し、政権を乗っ取ろうと動き出します。慶長5(1600)年に、家康が上杉討伐で関東にくだる際、昌幸も同行しました。時を同じくし石田三成(いしだみつなり)が決起し、戦国武将が東西に分かれて戦った「関ヶ原の戦い」がはじまります。
上杉討伐へ向かう途中の犬伏で三成から勧誘状を受け取った昌幸は、信幸と信繁と犬伏城でどっちにつくかを真剣に話し合いました。実は三成の正室は、昌幸の妻の妹で親戚関係です。信繁の妻は秀吉の重鎮で西軍についた大谷吉継。嫡子信幸の妻は徳川の重鎮本多忠勝の娘で家康の養女小松姫だったのです。
昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につきました。どちらが勝っても真田家が残り、うまく立ち回れると踏んだからでした。上田城に帰る途中で信幸が治める沼田城に立ち寄るも、小松姫は「今は敵!夫が戻るまでは」と門を開けません。でも、昌幸の気持ちを察した小松姫は、孫を城の窓から見せたとか。昌幸も、できた嫁だと感心したようです。
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4-3 再び家康に牙をむいた第二次上田城の合戦
昌幸も信繁も関ヶ原の戦いの本戦には参加していません。家康は軍を二つに分け、嫡男秀忠に中山道を通らせ、途中にある上田城の攻略を目論みます。徳川秀忠は本多忠勝の息子忠政と信幸を上田城へ送り開城を求めました。その時、「秀忠様のお申しつけとあれば喜んで!3日ほど準備に時間をくだされ!」といいます。
もちろん「表裏比興の者」と称された昌幸の策略です。小諸城で3日待った秀忠への返答は、「3日は籠城のための準備の時間。我が上田城を落とせるものなら落としてみよ!」でした。まだまだ若い秀忠は激高し、上田城攻めを開始します。
信幸には信繁が入った戸石城を、攻撃させました。信幸が到着したとき既に戸石城はもぬけの空。兄弟を戦わせたくないという、父親の愛情だったのでしょうか?昌幸は秀忠軍を上田城に誘い込み叩きのめしました。秀忠が心待ちにしていた援軍が来るのを阻むため、信繁が神川を増水させて行く手を遮ったため、撤退せざるを得ませんでした。しかも、秀忠が関ヶ原に到着したときには、既に決着がついており、家康から大目玉を食らったのです。