4-4勝利するも敗者となった昌幸
秀忠の3万8千の軍勢を、関ヶ原の本戦に参加させなかったことは、西軍にとって素晴らしい功績だったでしょう。でも、本戦では家康率いる東軍が勝利し、西軍は敗者となりました。嫡男秀忠の件もあり、家康の昌幸への怒りは相当なものでした。2回の上田城の合戦だけでも、完膚なきまでに叩きのめされたんですもの。
昌幸のもとに西軍敗戦の情報が届きました。大坂城にいた家康に、長男信幸が父と弟の命乞いをします。家康は「許さん!」の一点張り。小松姫の父本多忠勝の力をかり、なんとか命だけは救われますが、二人は高野山へ流され、山麓の九度山で蟄居生活を送りました。辛酸を嘗めさせられた家康は、上田城を破却しています。
5.死んだ後も家康を脅かした昌幸の晩年
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上田城の没収と二人の処刑が決まっていたものの、長男信幸のお陰で命拾いしました。家康を2度も追い詰めた名将昌幸は、二度と表舞台には戻れませんでした。
5-1蟄居のまま死を迎える昌幸
55歳で追放された昌幸は、いつかは表舞台に戻れると思っていました。しかし、そんな簡単ではありません。九度山での生活は貧困で辛く、昌幸は真田紐を作り、家臣を全国にバラマキ売り歩かせました。実は、家臣たちに情報収集をさせていたのです。全国にちりばめられた家臣は、伝説「真田十勇姿」のもとになったとか。
貧困生活を助けたのは、長男信之(徳川に父の命乞いをした際、幸の字をすて之に改名。)の仕送りでした。
「近いうちに家康は豊臣を滅ぼすだろう。わしは、そこまで生きられない。徳川を叩き潰してくれ。」と、臨終の際に信繁に頼みました。「大坂城での籠城作戦では敵わない。京都や奈良、近江の要所を豊臣で固め、積極戦をするべし。」と策を伝授したとか。慶長16(1611)年6月4日に昌幸は、65年の生涯を終えました。
5-2死後も昌幸の知謀を恐れた家康
豊臣家が大坂城に浪人を集めていると監視を強めているとき、昌幸が死んだことを家康は知りませんでした。真田が大坂城に入城したと聞き家康の顔はみるみる青くなり、「それは、親か?子か?」と尋ねたとか。
その時、昌幸の生死をすぐに調べろと命令したようです。家康は、息子の信繁(幸村)にも大坂の陣で首に刃を突き付けられました。信之は、真田家を守り13万石に加増され初代松代藩の長となり、93歳まで生きています。
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小大名として諸勢力に屈することなく、真田家を守り抜いた名武将昌幸の名は、息子の活躍と共に今もなお「愛される戦国武将」として語り継がれています。