2-2信玄死去!昌幸の運命は如何に
元亀3(1572)年に足利義昭の呼びかけで信玄は、信長打倒のために西上侵攻を決起。信長と同盟関係の徳川家康を攻撃した「浜松城攻め」や信玄が病を押して戦った「三方ヶ原の戦い」にも完勝しました。病が悪化した信玄が「西上を止めるな!」というも、倒れた信玄を心配した後継ぎの武田勝頼(だけだかつより)は甲斐へ引き返します。元亀4(1573)年4月12日に、信玄は途中の信濃国駒場で絶命しました。
天正3(1575)年5月21日に、信長と家康の3万8千の連合軍と勝頼率いる1万5千の軍勢が激突した「長篠の戦」がはじまります。真田家当主信綱と昌輝の兄2人をはじめ、多くの家臣が戦死しました。信綱の子は後継ぎには小さすぎたため、勝頼の命により昌幸は真田家に戻され、同年に「真田家当主真田喜兵衛尉昌幸」が誕生したのです。
天正7(1579)年に叔父矢沢頼綱(やざわよりつな)と共に、北条から沼田城の攻略に成功します。昌幸は「安房守(あわのくに)」に改名しました。天正9(1581)年に勝頼を守るために、新府城の築城が決まり昌幸が普請を担当します。
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2-3武田勝頼死す
長年同盟を結んでいた武田と北条の関係は破綻しました。織田と徳川の連合軍が、本格的に武田への総攻撃を開始し、北条も武田領を狙ったからです。同盟が続いていた上杉は雪で参戦できず、国人衆が連合軍に寝返り、勝頼の従兄弟穴山信君(あなやまのぶきみ)までもが裏切ります。
「あの時(西上侵攻)、信長を討っておくべきだった。」と、勝頼は悔やみました。昌幸は、未完成の新府城では格好の餌食になる。数ヶ月なら持つと踏み「我が岩櫃城で、再起を計られよ!」と誘い、勝頼も了承しました。
昌幸が岩櫃城の準備のため勝頼の側を離れたすきに、武田家の重鎮のひとり小山田信茂(おやまだのぶしげ)が、岩櫃城は遠すぎると岩殿城へ誘い連れて行ったのです。小山田が謀反をおこし、天目山で勝頼は妻子共に自害し武田家は滅亡しました。
2-4昌幸の本性はどれ?
36歳の昌幸は、「自分の忠義もむなしく不本意だ。」と語ったとか。半生を捧げても、外様の身では信頼されない無念を感じます。昌幸は勝頼の仇討ちを決意するも、「裏切り者の小山田は、信長がいずれ謀殺するでしょう。」と家臣に諭され思いとどまりました。
大河ドラマ『真田丸』で、「表裏比興の者」ぶりを発揮したセリフ「武田は滅びるぞ」とみせた、シニカルな姿が本当かもしれませんが…。しかも、勝頼が自害する直前に、北条家と連絡を取り武田が滅びたら北条に移ろうと目論んでいたとの説もあります。
3. 戦国武将の性?諸勢力を渡り歩く昌幸
武田を失った昌幸は、真田家の身の振り方に悩みます。それでは、「表裏比興の者」と称された昌幸の後半の人生を辿ってみましょう。
3-1主を追い求め、「表裏比興の者」の本性を表す昌幸
武田滅亡直後に昌幸は長男信幸と次男信繁(幸村)の意見を聞き、甲斐征伐の張本人織田信長にくだります。天正10(1582)年3月15日に高遠城で信長に謁見し、臣従を許されました。降伏する決断と行動が早く、信長は真田家の本領を安堵します。第六天魔王信長にしては寛大だったのでは?如何に昌幸が、機転が利く男だと分かるエピソードでしょう。
明智光秀が信長に謀反をおこした「本能寺の変」が、3ヶ月後の6月2日に勃発したのです。信長の死後織田の武将たちは危険を察し立ち去り、信濃の国人の領主たちは話し合いで昌幸を盟主と立てます。くわせものの昌幸は、話し合いが終わった頃に顔を出し酒宴を開いたとか。
次に北条氏直(ほうじょううじなお)に臣従しながら、真田家は信濃で領地を広げます。北条が沼田城を要求するも、昌幸は家康にくら替えしました。沼田城を渡したくないのが本音ですが、北条と対峙していた家康から旧武田家臣の依田信蕃(よだのぶしげ)を通じて誘いがあったとの説もあります。
短い間に織田、北条、徳川と諸勢力を渡り歩くなんて、小大名の性とはいえやりすぎかも。北条氏直は、「小大名のくせに、徳川について刃向かうとは生意気な!」とブチ切れたとか。
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3-2 家康を苦しめた上田城の築城
中山道の要所強化のため、千曲川沿いの崖の上に上田城の築城をはじめます。畿内で猛威を奮う秀吉の脅威を恐れ、家康は北条と和睦。変え地を用意するので、北条が欲する沼田城を譲渡せよと命令されるも、家康にはその土地がないと踏んだ昌幸は、沼田城を手放さずに様子を見ます。
信長の後継者問題で、半年以上に及ぶ家康と秀吉の激戦「小牧・長久手の戦い」がおこり、昌幸はその間に上田城を完成させました。決着を見ないまま戦が終わると、家康は昌幸に「北条へ沼田城を渡せ。」と再度命令します。秀吉と同盟関係にあった上杉と組むため、次男信繁を人質に出しました。裏切りに激怒した家康は家臣の鳥居元忠(とりいもとただ)に7千の兵を与え、真田征伐(上田城攻め)を命じます。
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