ルイ14世と美術
ルイ14世はフランス王にの文化政策の大きな発展を成し遂げた人物として有名で、のちにも出てくるコルベールなどの発言もあってかルイ14世の時代にはフランス王にでは積極的に文化が振興していくことになります。
1666年には王立科学アカデミーという施設を設立。これまで神の教えに刃向かうとしてあまり発展しておらず日陰で研究することを強いられていた科学者を保護。活発的に新技術の開発を促して援助しました。
また、芸術家や学者に対して年金制度などの生活補助を始めたのもルイ14世。
芸術家かしたらこの頃のフランスはまさしく研究にうってつけの場所だったそうですが、そんなルイ14世の治世の頃のフランスを代表する建築物といえばフランスの首都であるパリ郊外に建てられたヴェルサイユ宮殿。
これまではパリ内に複数あった宮殿を行ったり来たりしていたそうですが、ルイ14世は1661年からヴェルサイユにて宮殿の造営を開始。
3期にわたる大工事の末に完成したこの宮殿はこの当時流行っていたバロック建築の代表格として今に伝えられ、1979年には世界遺産にも登録されました。
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ルイ14世の対外戦争
ルイ14世は対外戦争に熱心な王様でこの頃に入ると今のフランスの原型となるほどの領地を手に入れるようになりました。
次はどのようにしてルイ14世は対外戦争を行って行ったのかについてみていきましょう。
ネーデルラント戦争
時は1669年。当時ヨーロッパ中を巻き込んだ大戦争の三十年戦争の講和条約であるピレネー条約を締結したフランスとスペイン。
そのピレネー条約の内容の一つにルイ14世とスペインの婚約が取り決められていましたが、その矢先に条約を結んだ張本人であるフェリペ4世が死去。そのフェリペ4世が亡くなった時の遺言書がフランスにとってかなり都合が悪い内容だったそうです。
もしかしたらこれがフランスの危機になるが知れないと感じたルイ14世はこの当時スペインの領地であった南ネーデルラント(現ベルギー)に侵攻を開始。結局フランスの勝利に終わり、1668年にアーヘン条約でフランスは一部のいくつかの南ネーデルラントの都市を併合しました。
スペイン継承戦争
ネーデルラント戦争が終わってから30年ほど経ったヨーロッパ。この時スペインを支配していたスペイン・ハプスブルク家は近親婚ばっかりしていたため病弱な王様しかいない状況でした。
そこに漬け込んだのがルイ14世。ルイ14世は自分の妃が当時スペインの王様であったカルロス2世の姉であることを理由に自分の孫ひスペインを継がせようと画策。これに待ったをかけたオーストリア・ハプスブルク家はフランスに対して王様を擁立しようと考え始めますが、カルロス2世の遺言書にはフランスのアンジュー公フィリップに王位を継承するという形の文章が残されており、フランスの影響力が強い王様がスペインの王位を継ぐことになりました。
この結果オーストリアはフランスに対して宣戦布告。これにイギリスやオランダなどが参入していき、最終的にはヨーロッパ中を巻き込んだ大戦争へと発展していきました。
そんな大戦争でしたが、最終的には収拾がつかなくなってしまい最後にはユトレヒト条約とラシュタット条約を締結して講和。
この時結ばれた二つの条約を持って今のフランスの領土がほとんど確定することになりました。
戦争がもたらした影響
ルイ14世は対外戦争に熱心であったため、フランスの財政の殆どが軍事に回されることになりました。しかし、その結果招いたのがフランスの財政危機。軍事に金をかけた割にはあたりいい結果は残せませんでしたので、フランスの財政は崩壊寸前の危機にまで追いやられていました。
もちろんその財政の元となっているのは民衆に課せられた税金。そのツケを払わされたのが民衆であったことがのちのフランス革命の原因へとつながっていくのでした。
ルイ14世はスペイン継承戦争を終わらせた直後である1715年に死去。良くも悪くもフランスののちの歴史に大いに影響をもたらした人物だったのです。
太陽王の意外なトリビア
こうしてフランスをヨーロッパの大国にしたルイ14世でしたが、実は彼には面白いトリビアが数多くありました。
次はそんな彼のトリビアについてみていきましょう。