剛腕の宰相、吉田茂
日本降伏後、吉田茂は外務大臣として活動。1946年に自由党総裁の鳩山一郎が公職追放されると、吉田が自由党の総裁に就任し、総理大臣となりました。その後、選挙の敗北で一時政権を追われます。しかし、1948年に首相に返り咲いてからは1952年までの長期政権となりました。吉田政権の重要政策をまとめます。
自由党の総裁に就任
1946年4月、大日本帝国憲法下で最後となる衆議院議員総選挙が行われました。その結果、第一党は鳩山一郎率いる日本自由党、第二党は町田忠治の日本進歩、第三党は片山哲の日本社会党となります。
この結果、第一党の党首である鳩山一郎が首相になるはずでした。しかし、鳩山は戦前の行動を問題視され、GHQより公職追放を言い渡されます。鳩山は貴族院議員だった吉田に自由党総裁になるよう頼みました。
吉田は閣僚人事に口を出さないことや資金繰りを担当しないこと、辞めたくなったらいつでも辞めることなどを条件とし、鳩山に受諾させます。吉田は自由党幹部にはかることなく、独断で組閣本部を立ち上げ第一次吉田内閣を作り上げました。しかし、鳩山との関係は徐々に悪化し、最終的には鳩山派と対立関係になります。
戦後経済の復興
第一次吉田内閣の緊急課題は、太平洋戦争で壊滅した日本経済の再建でした。吉田は石炭や鉄鋼など重要産業に資金と資材を集中的に投入する傾斜生産方式採用します。石炭の増産により鉄鋼の生産量を増やし、鉄鋼を原材料として鉄道を復興させました。
さらに、増産された石炭を使って火力発電を強化します。また、化学肥料の生産にも力を入れ、食糧不足の問題を解消しようとしました。
石炭や鉄鋼などの産業を資金面から支えるため、1947年に復興金融金庫を設置。資金を必要とする企業に大胆に貸し付けました。石炭や鉄鋼の生産は目標通りに進み、産業復興のめどが立ちます。
しかし、復興金融金庫による貸し付けが大きすぎたため、国内に大量の紙幣が流通。その結果、お金の価値が下がるインフレーションが加速しました。1949年に来日したアメリカのドッチはインフレを抑え込むため、日本政府に赤字を出さない均衡予算を要求。インフレは終息に向かい物価は安定しました。
朝鮮戦争と警察予備隊
日本が太平洋戦争に敗北し朝鮮半島から撤退すると、北緯38度以北はソ連が、38度以南はアメリカが占領しました。1948年、南部にアメリカが支援する大韓民国(韓国)が、北部にソ連や中国の支援する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立します。
1950年、北朝鮮の指導者金日成はソ連のスターリン、中国の毛沢東の黙認を得て38度線を強行突破、朝鮮戦争が始まりました。奇襲攻撃を受けた韓国軍は敗退を重ね、南端の釜山周辺に追い込まれます。
GHQのマッカーサーは在日米軍を朝鮮半島に動員。仁川上陸作戦の成功で北朝鮮の背後を突き、形勢を逆転させました。1950年7月、マッカーサーは吉田首相に治安部隊創設を提示します。
日本政府はマッカーサーの要請を受け入れ、警察予備隊75,000人を配備しました。警察予備隊は保安隊と名をかえたのち、1954年に自衛隊となります。
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サンフランシスコ平和条約の締結と日本独立
朝鮮戦争は、日本経済にプラスの影響をもたらしました。日本はアメリカ中心の国連軍を支える後方基地の役割を持ち、戦争に必要な品々を供給したからです。そのため、日本は朝鮮戦争特需に沸きました。
アメリカは日本を早期に独立させ、アメリカなどの西側陣営に取り込もうと考えます。1951年、日本はアメリカをはじめとする連合国とサンフランシスコで会談しました。その結果、日本はサンフランシスコ講和条約を結びます。
条約の内容は、日本の独立や朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の放棄、沖縄と小笠原諸島のアメリカ統治、占領軍の撤退など。ただし、ソビエト連邦や中華民国、中華人民共和国などとは平和条約を結びませんでした。
サンフランシスコ平和条約締結と同じ日、吉田は日米安全保障条約にも署名します。これにより、日本国内にアメリカ軍が引き続き駐留することを認めました。
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