日本の歴史明治昭和

日本独立を達成し長期政権を維持した「吉田茂」を元予備校講師がわかりやすく解説

破壊活動防止法の制定

1952年5月1日、皇居前広場で開かれた第23回メーデーにおいて、参加者が再軍備の反対や皇居前広場の解放などを求めてデモ行進が行われました。

デモ参加者の一部が日比谷公園付近でスクラムを組み、届け出ていたルート外でのデモ行進を始めます。打も参加者の一部は警察署を襲撃し暴徒化。警察官から拳銃を奪うなどの行動に出ます。

暴徒化した人々は皇居前広場から二重橋方面に進出。警官隊と激しく衝突します。事態は午後6時には終息しますが、双方合わせ1,000人以上が負傷する大惨事となりました。この事件を血のメーデー事件といいます。

吉田は血のメーデー事件をきっかけに、破壊活動防止法を国会に提案。法案制定に持ち込みました。これにより、暴力主義的破壊活動を行った団体を取り締まることが可能となります。なお、破壊活動防止法は1961年の三無事件、1971年の渋谷暴動事件などで適用されました。

鳩山グループとの対立と「バカヤロー解散」

サンフランシスコ平和条約締結後も、吉田政権は継続します。このころになると、公職追放を解除された鳩山一郎のグループとの政治抗争が激しくなってきました。

吉田は鳩山グループの力を抑えるため、1952年に衆議院の「抜き打ち解散」を決行します。しかし、鳩山グループに決定的打撃を与えることはできませんでした。なお、鳩山一郎はこの選挙で当選し衆議院議員に返り咲きます。

1953年、衆議院で日本社会党の西村栄一に対する国会答弁の最中、吉田が「バカヤロー」とつぶやいたことから議会が紛糾してしまいました。これを好機と考えた鳩山グループは吉田内閣に対する内閣不信任決議案に賛成し、衆議院解散に追い込みます。この解散を「バカヤロー解散」といいました。

選挙の結果、吉田の自由党は過半数割り込みました。吉田は改進党の協力を得てかろうじて第5次吉田内閣を発足させます。

吉田政権の終わりとその後の吉田茂

1954年、吉田内閣に致命傷を与える造船疑獄が発覚します。政府の政策に絡む贈収賄事件で、政界・財界・官界から多数の逮捕者が出ました。検察の捜査は自由党幹事長で吉田の腹心である佐藤栄作に及びそうになります。

そこで、法務大臣の犬養健は法務大臣の権限(指揮権)を発動して、佐藤栄作の逮捕を延期させました。犬養法相や吉田内閣は世論やマスコミから指揮権発動を激しく批判されます。

少数与党で基盤が弱かった吉田内閣に対し、野党は内閣不信任案を出す動きを見せました。吉田は内閣の続行を断念し総辞職します。

1955年、自由党と民主党が合同し自由民主党が成立。社会党も左右両派が合同し、保守と革新による55年体制ができあがりました。吉田は当初、自由民主党に参加しませんでしたが1957年に入党します。

吉田は1963年に政界を引退しますが、政界に対し一定の影響力を持ちました。1967年、吉田は大磯の私邸で死去します。享年89歳でした。

吉田が育てた政治家たち

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突如、自由党総裁となった吉田は自分自身の味方となる勢力を作る必要がありました。吉田は官僚出身者を中心に支持グループをつくります。このことをさして、「吉田学校」などと称されました。佐藤栄作や池田隼人、田中角栄などが吉田学校の代表的人物です。彼らは、自由民主党の中核を成す政治家として活動しました。

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