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日本美術界の立役者「岡倉天心」とは?センス抜群の英語力で世界に日本の美術を発信!

3-3天心欧米に美術視察へ行く

図画取調掛の委員として選ばれた天心は、フェノロサと共に欧米各地へ美術の視察へ行きます。9ヶ月間に渡って、先進国の美術学校や博物館など、美術に関わる行政がすべきことを見て回りました。

さまざまな美術と触れ合えたこの旅で「審美眼」を身に付け、眠っていた才能を開花させたようです。美術というものは国や土地によって特色があり、西洋と東洋の融合しただけの美術も十分に素晴らしいが、各国がその国の特質を維持しながら各国独自の美術の発展を目指すべきという思いに達しています。日本が誇る天才美術指導者天心は、一度目の欧米視察で世界の美術界の中で、日本美術のあるべき姿を思い描いたのです

4.世界に日本美術を配信する岡倉天心

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「のびのびとした美術教育を」との理念に基づき大学教育にも携わっています。天心は、決して芸術家ではありません。近代美術を牽引する、横山大観や下村観山、菱田春草など今世に名を残す画家たちを育て、日本画革新運動ではリーダーとなり先陣を切って活躍しています。抜群の英語力を使い、アジアの美術を世界に発信したのも彼の功績です。

4-1東京美術学校の設置

東京大学の講師だったフェノロサは、高級なサラリーをもらっており、日本の美術品を買いあさっていました。収集した美術品を、ボストン美術館など海外に売り飛ばし更なる利益を得ていたようです。日本の美術界にとっては、フェノロサは悪人かも…。

東京美術学校(現:東京藝術大学)設立の1889年ごろ海外では、日本の美術が「ジャポニズム」ともてはやされていました。天心はこの学校で、新しい時代に新しい日本美術を先導する美術家たちを育成しようと躍起になっていたのです。東京芸術学校設立の翌年、まだ27歳の天心が2代目の校長に就任しています。

のびのびとした美術教育をとの教育方針から教師の選定など、学校運営のほとんどを初めてだらけの天心が担いました。仏師の高村光雲(たかむらこううん)を、講師に招いたときも「仕事場でやっていることを学校でやってくれるだけでいい。生徒が勝手に学ぶから。」と学校に仕事部屋を作ってしまうほどでした。というより、芸術家たちは、大学の講師に選ばれても生徒に何を教えたらいいのか全く分からずなりてはいませんでした。講師探しには人並みならぬ苦労があったようです。天心の本音は、100人の生徒の内一人とびぬけた芸術家が生まれればいいと思っていたとか。

4-2人生初の挫折を味わう天心

全力投球で学校作りを行っていた天心に、暗い影を落とす事件が起こります。天心が東京美術学校に求めたのは、伝統技術を後進に伝えるだけではありません。日本や西洋の美術史なども学ばせています。更に、予算や教員、教室も増やし、「go my way(我が道を行く)」の精神で造り上げてきたままでの規模拡張を目指したのです。

天心の目論見に待ったをかけた人物がいます。当時の文相西園寺公望(さいおんじきんもち)でした。拡張は叶いましたが、天心の描いていた学校とは違い、西洋美術も日本美術も同等に奨励するというもの。西洋画科設置に端を発し校内に動揺が走り、天心排斥運動が起こったのです。

しかも反対派がジャーナリズムに訴えかけ、色恋沙汰のスキャンダルまで露呈し、東京美術学校の校長を辞任せざるを得なくなってしまいました。他にも、帝国博物館の理事や美術部長など、古社寺保存会委員を除く全ての官職から退いています。

4-3挫折に負けなかった天心

天心は、妻と娘と秩父の中津渓谷で生活をはじめます。半年後に橋本雅邦(はしもとがほう)ら26名の東京芸術学校辞職組と共に、新しく私立の美術学校を開校する準備のためでした。新しい学校「日本美術院」は、大学における大学院を意識したもので、東京谷中初音町に開設しています。

ジャーナリズムの重要性の認識により機関誌『日本美術』を発行し、日本絵画協会と連合で展覧会を開催したのも日本美術院としての活動です。展覧会では、横山大観や下村観山、菱田春草らの力作を展示し世間の注目を集めています。

横山大観や菱田春草の『朦朧体(もうろうたい)』という日本画の技法は、一般に受け入れられず、美術院批判の象徴となってしまいました。天心が作った日本美術院の経営は逼迫してしまいます。

4-4ボストン美術館時代の功績

明治37(1904)年2月10日の日露戦争が開戦となった日に、天心はアメリカのボストンへ向い横浜港を出港しました。ボストン美術館でも勤務し、月給205ドル(当時500円)を受け取っていました。9年に渡る勤務では、5回ボストンへ訪れています。ボストン美術館にある膨大な日本美術のコレクションを整理鑑別し、勤務の傍ら日本をはじめアジアの芸術を世界へ紹介するためにさまざまなことに着手したようです。

セントルイス万国博覧会での講演や、『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』や『The Book of Tea(茶の本)』など英語本の出版、天心最後の作品となったオペラの台本『White Fox(白狐)』など多岐に渡っています。ボストン・オペラ・ハウスや美術館という文化配信の要で活躍できたのは、「ガードナー夫人」の力によるものです。だってガードナー夫人は、ボストン社交界の女王と呼ばれるほどの人物なんですよ!

天心も茶道具を揃えてお茶会を開きもてなしたとか。ガードナー夫人の人脈からビゲローやラファージなど、これまでとは全く異なったタイプの人々と出会うことができ、彼らが更なるパトロンとなってくれたようです。

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