2-2天心もショック!幻の卒業論文
東京大学在学中の明治11(1878)年に、17歳で基子(もとこ)と学生結婚をしています。夫婦喧嘩がきっかけで、卒業論文『国家論』が提出期限の2週間前に幻となったのです。13歳の基子が妊娠中に、天心に好きな女性がいると疑った嫉妬心が原因でした。
当時の東京大学での講義は英語で行われていました。もちろん、卒業論文も英語です。何ヶ月も前から、『国家論』という難しいテーマに挑んだ卒業論文は、天心の自信作といえる出来栄えでした。その論文を妻が、ビリビリに破いたのです。天心が「やめろそれは卒業論文だぞ!」と叫んだときは既に遅し。基子は、論文を破った上に火の中に放り込んでしまいました。
天心はテーマを『美術論』に急遽変更し、2週間で卒業論文を書き上げました。もちろん英語で!夫婦喧嘩がなかったら、1番だったかもしれませんが、卒論の成績は8人中ビリから2番目だったようです。残念!美術に携わった天心の生涯を見ると、卒論がきっかけで好転したように思います。天心自身も後に、「世の中へ出てからも、あの論文が一生を支配したようなものだ。」と語っています。英語で卒業論文を書いたことも凄いですが、専行ではない美術の論文を2週間で書いてしまうほど美術に関する深い知識も習得していたようですね!
3. 大学卒業後は文部省へ入った天心
By 不明 – 茨城県天心記念五浦美術館蔵, パブリック・ドメイン, Link
卒業後は文部省に入りエリートコースを歩みます。更に得意な英語を活かし、フェノロサの日本美術の研究を手伝いました。日本の美術に触れながら、保護するための行政のあり方を模索していたようです。それでは、東大卒業後の岡倉天心の活躍を見てみましょう。
3-1美術に目覚めた文部省時代の天心
日本が文明開化の世となり、華美な西洋美術が好まれるようになりました。残念なことに、日本美術は西洋美術の陰に隠れてしまいます。大学2年生の時からフェノロサの通訳を努めており、東大卒業後もお伴で京都や奈良の古社寺を巡歴しました。
卒業後は、文部省に入り音楽取調掛に就きます。文部省だけあり給料は、当時の学校教員の6~7倍だったようです。高給取り!羨ましいですね。
12月には専門学務局兼内記課兼務に移動しました。その時、文部省の最高実力者だった九鬼隆一(くきりゅういち)の学事視察随行を命ぜられます。新潟県や石川県、近畿地方の古社寺を巡り、2年後には長崎県や佐賀県にも随行しました。この旅で日本美術の優秀性に感動し、文部省に美術局の設置を企てたようです。視察で同行した天心のことを、九鬼氏は「非常の天才」と天心の死後に追悼文で賞賛しています。
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3-2美術への行政設置を目指す天心
天心の美術局を作りたいとの意志に同意するものが出てきました。西洋の事情に明るく頼りになるお兄さん的存在の今泉雄作(いまいずみゆうさく)です。明治18(1885)年には、専門・普通両学務局から、図画教育調査員に選ばれることになりました。委員の専門学部局側には、天心をはじめ、今泉雄作や狩野芳崖、狩野友信など6名が選出。追ってフェノロサも追加されています。
フェノロサによる画家教育を中心とした活動をはじめ、展覧会を開けば狩野派出身者を筆頭に、日本美術に携わる人々が積極的に作品を出品したようです。そのお陰で、学務一局に図画取調掛が設置され、天心、今泉雄作、フェノロサは委員に任命されます。