反・信長へ!石山合戦の始まり
ところが、信長の要求はだんだんと無理難題ばかりになっていきます。何かにつけて報告を要求し、本願寺としての命令を出すにも信長の許可を求め、他の戦国武将との関係も断つようにと命じてきたのです。それだけではなく、なんと、本拠地・石山本願寺の明け渡しまで求めてきたのですから、ここに至り、顕如の我慢は限界に達そうとしていました。
ちょうどそのころ、かつて室町幕府を牛耳るも信長によって追放されていた三好一族の「三好三人衆」が、元亀元(1570)年、打倒信長を掲げて挙兵しました。
顕如はこの瞬間、反・信長に転じたのです。
彼は、全国の門徒に対して檄文を飛ばしました。
「信長はずっと当方に対して難題を吹っ掛け続けてきた。しかもにわかに、本願寺を明け渡せと言い出した。門徒たちよ、身命を顧みずに本願寺に忠節を尽くすのだ!」
こうして、10年に及ぶ石山合戦の火蓋が切って落とされることとなったのでした。
10年に及ぶ織田信長との死闘「石山合戦」の顛末
顕如率いる本願寺勢力と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれました。この間に、各地で一向一揆が続発し、顕如も加わった反・信長を掲げる武将たちによる「信長包囲網」も形成され、信長は苦しめられることになります。顕如と信長の戦いは約10年も続きましたが、信長包囲網の崩壊により、両者も和睦の道を歩むことになるのです。
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信長を苦しめた本願寺勢力
三好三人衆が信長を攻撃して始まった野田城・福島城の戦いは、顕如と信長の石山合戦の端緒となりました。押される三好軍を援護する形で参戦した本願寺勢力により、形勢は逆転。信長は多くの武将を失って撤退し、いったん、顕如は彼と和睦することになりました。
しかし、石山合戦とほぼ同時期に、長島(三重県桑名市)で一向一揆が勃発したのです。この勢いはすさまじく、信長は直接顕如と対決したわけではありませんが、本願寺勢力にかなり苦しめられることとなりました。
また、信長と将軍・足利義昭の仲は悪化の一途を辿り、義昭を支持し信長に反目する武将たちによって信長包囲網が形成され始めていました。武田信玄や上杉謙信までもがこれに加わり、信長は苦境に立たされることとなるのです。顕如率いる本願寺勢力も各地で一揆を繰り広げ、信長を大いに苦しめることになりました。
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信長による本願寺包囲
しかし、武田信玄の死によって信長包囲網の一角が崩れると、信長は徐々に息を吹き返します。越前(福井県)の朝倉氏、近江(滋賀県)の浅井氏を滅亡させ、越前で起きた一向一揆を鎮圧し、長島一向一揆を殲滅したのです。
一方、顕如は、毛利輝元(もうりてるもと)に保護された足利義昭と手を結び、再度挙兵しました。信長はこれに対して石山本願寺を包囲する作戦に出ましたが、顕如はこれを蹴散らし、信長の家臣・明智光秀を追い込みます。
ただ信長の本願寺包囲はしぶとく、やがて補給を封じられ、今度は顕如が苦境に立たされることとなってしまいました。
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信長との和睦後、石山本願寺を退去
すでに武田信玄や上杉謙信らはこの世になく、信長配下の軍勢によって各地の一揆も鎮圧されつつありました。加えて、補給を封じられたままだった顕如は、これ以上の犠牲をなくすべく、ついに信長との和睦に動くことになります。
こうして、天正8(1580)年、10年も続いた石山合戦は終結し、和睦の条件を呑んだ顕如は石山本願寺を去り、紀伊(和歌山県)の鷺森御坊(さぎもりごぼう)に退去することとなったのでした。