安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

織田信長の前に立ちはだかった「顕如」石山本願寺のトップをわかりやすく解説

石山本願寺を去った顕如とその後の本願寺勢力

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和睦と引き換えに石山本願寺を明け渡した顕如ですが、その後、突如として寺は炎上してしまいます。信長の死後は豊臣秀吉とも和睦し生き残りの道を探るも、権力からの圧力はどんどん強まっていきました。顕如の死後、息子たちによって本願寺勢力は分裂することとなります。顕如の晩年とその後の本願寺勢力について見ていきましょう。

石山本願寺の炎上と息子との対立

顕如は石山本願寺を去りましたが、長男の教如(きょうにょ)は明け渡しに反対し続け、退去もせずに居残っていました。このため、本願寺勢力は顕如派と教如派に分かれてしまいます。

その後、結局教如は石山本願寺を退去しましたが、退去直後に寺は炎上してしまいました。炎の勢いはすさまじく、2日間も燃え続けたそうです。失火とも、教如による放火とも言われていますよ。

一方、顕如は秀吉との和睦後、天満本願寺(てんまほんがんじ)を設立します。秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城を建設し始めたため、その城下に天満本願寺を建てる形となり、名実ともに本願寺は秀吉の統制下に置かれることとなりました。

秀吉の圧力により勢力縮小

秀吉の統制下に置かれた顕如以下本願寺勢力は、さらなる試練を突き付けられます。

天正17(1589)年、秀吉の邸宅・聚楽第(じゅらくてい)の壁に政道批判の落書きがあり、この犯人が天満本願寺の地内町に匿われているとして、本願寺関係者が自害させられるなど、厳しい処置が取られたのです。しかも、この2年後には秀吉の命令によって京都の七条堀川に移され、さらに本願寺勢力は力を削がれることになってしまいました。

そして天正20(1592)年、顕如は衰える本願寺を憂いながら、50歳で亡くなったのでした。

本願寺の分裂

顕如の死後、跡を継いだのは三男の准如(じゅんにょ)でした。彼は石山本願寺に居残った兄・教如と対立し、本願寺勢力は本格的に分裂してしまいます。

准如率いる京都・七条堀川の本願寺は、現在の西本願寺となり、教如は後に徳川家康から土地を寄進され、東本願寺を設立することになりました。西本願寺は「本願寺派」、東本願寺は「大谷派」となり、現在に至ることとなるのです。

全盛と転落を同時に味わった顕如

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本願寺勢力の全盛期を迎えた時に宗主だった顕如ですが、信長との死闘の果てに、転落をも同時に味わうことになりました。その時彼は何を思ったでしょうか。時の権力には、やはり僧ではかなわない…そんな無力感があったかもしれません。ただ、戦国時代にあの信長と対等に渡り合うことができた彼の手腕と統率力は、並々ならぬものだったことがおわかりいただけたかと思います。

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