欧州を近代社会に導いた「ウェストファリア条約」とは?わかりやすく解説
三十年戦争以前のヨーロッパ社会
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三十年戦争以前のヨーロッパは、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝が各領主の地位を認定し、その領主はその地域のカトリック教会の価値観に基づいて支配していたのです。住民には何も決められず、社会秩序にしたがって生きるだけの閉塞感の強い社会が何百年も続いていました。
その打破のきっかけはルネサンスでした。それ以降、ルネサンスの成果である羅針盤を使って大航海時代が実現して、地球は一つの社会としてつながります。さらに宗教改革によって、人々は自由に自分の主張をすることができるようになったのです。
プロテスタント派とカトリック派の対立から三十年戦争へ
人々が自由に考えたり、主張をしたりするようになると、それまでキリスト教会に縛られていた保守的な人々と対立が生じるようになりました。古いしきたりや体制に慣れた人々は、新しい考え方をする人たちを受け入れることはできず、それは宗教対立となっていったのです。
その結果、プロテスタント派とカトリック派の宗教戦争は多くの国、領主を巻き込んだ三十年戦争に発展しています。
プロテスタント派の勝利に終わり、ウエストファリア条約が結ばれる
三十年戦争は、すべての参加者が揃って戦争をしたのではなく、さまざまな地域でさまざまな国、領主が個別に戦ったり、合同で戦ったりしていました。そして、この三十年戦争の結果は、プロテスタント派の人々、国、領主の勝利に終わり、ウエストファリアで講和会議が開かれ、1648年にウエストファリア条約が結ばれたのです。
ウエストファリア条約とはどのような条約?
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実際には、ウエストファリア条約は、ドイツのウエストファリア州にある2つの都市で会議がおこなわれ、ミュンスター条約とオスナブリュック条約からなっています。両条約ともおこなわれた都市の名前がついているのです。
この会議には、神聖ローマ帝国皇帝、ドイツの66の領主、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダ代表などが参加しており、はじめての国際会議と言われています。約4年の歳月をかけて取り決められた条約でした。
ウエストファリア条約の内容とヨーロッパの歴史における意味
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ウエストファリア条約は、ルネサンス以来の自由主義観の台頭による宗教改革、大航海時代に伴う植民地主義の台頭と世界観の変化によって生じた三十年戦争を終結させました。このカトリックとプロテスタントとの対立が生んだ三十年戦争の講和会議の結果、いろいろな取り決めが生まれたのです。
それは、新しく生まれた世界観の勝利に他ならなりませんでした。すなわち、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の支配によるヨーロッパの中世社会が否定され、国家主権というものが認められたのです。
さらに明らかになったのは、次のような点でした。
・英国国教会の成立などに見られるプロテスタントの勝利
・プロテスタントのオランダがカトリックのスペインから独立
・各国は神聖ローマ帝国やローマ教皇に支配されることのない国家主権を確立
・国家間の約束ごとという条約の成立によって国際法の成立
などであり、それらがウエストファリア条約の中に織り込まれたのです。
教会と神聖ローマ帝国皇帝の支配から解き放たれたヨーロッパ諸国_国家の成立
これまで、ヨーロッパの各国は、神聖ローマ帝国皇帝やローマカトリック教会のローマ教皇から、その立場を保証される代わりに、国王の継承や国同士の争いに介入を受けていました。すなわち、現在の国際社会における主権国家というものは存在せず、よく言われる国益という概念もなかったのです。
しかし、三十年戦争後には、神聖ローマ帝国もローマ教皇の力も無力となり、カトリック派はプロテスタント派、国に実質的に敗れたことで、両者の権力は失われました。その結果、各国の国家主権というものが成立し、どの国も外交、国王の継承などにおいてどこからも介入を受けることがなくなったのです。
これによって、各国は絶対王政制度が成立し、自国の完全支配が可能になりました。フランスのブルボン王朝などが成立し、それぞれが独自に国内体制を確立し、重商政策などの植民地政策を展開していったのです。