日本の歴史江戸時代

享保の改革を実施した江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」をわかりやすく解説

幕府の支出削減策

古来、財政を再建する方法は二つしかありません。一つは支出を見直して減らすこと。もう一つは収入を増やすこと。吉宗も、地道に支出の見直しや増収をはかりました。

吉宗は自ら倹約を実施し、改革への姿勢を幕臣たちに示します。紀伊藩主時代と同様、羽織は絹ではなく木綿を着用し、食事も質素なものに変更。こうすることで、幕臣たちの贅沢を戒めました。

また、肥大化していた大奥のリストラにも乗り出します。ある時、吉宗は容姿端麗で25歳以下のものを選抜するよう命じました。お気に入りの女性を探していると考えた大奥の女性たちは、我先にと名乗り出ます。

しかし、吉宗は彼女たちに暇を出し、大奥から出してしまいました。若くて美しければ大奥を出されても良縁があると考えてのことだといわれます。こうして、大奥の経費も大幅にカットしました。

幕府の収入増加策

吉宗は幕府の収入増加をはかるため、積極的に新田開発を行いました。そのために、紀伊藩時代から水利事業を担当させていた井沢為永を抜擢し、各地で灌漑事業を行わせます。

井沢は武蔵国見沼の干拓や多摩川の改修、手賀沼の新田開発などに携わり幕府の収入増加に貢献しました。その結果、幕府の石高は412万石から459万石に増加、年貢も139万石から158万石に増加します。

また、年貢の取り立て方法を改め、作柄に関わらず一定量の年貢をおさめさせる定免法を採用しました。しかし、定免法の採用は事実上の増税となるため、農民から強い反発が起き一揆の原因となります。

このほかにも、大名から1万石あたり100石の米を献上させることと引き換えに参勤交代での江戸滞在期間を半年に短縮する上げ米も実施して収入増加をはかりました。

目安箱の設置と意見書の活用例

吉宗の政策として有名なのは目安箱を設置し、広く意見を募集したことです。庶民から意見を募集する方法自体は戦国時代からあったといわれていますが、もっとも有名なのが吉宗の目安箱でしょう。

1721年、吉宗は幕府評定所の前に、のちに目安箱とよばれる投書用の箱を設置させました。目安箱の意見が反映された実例としては、小石川養生所の設置が有名です。町医者の小川笙船が江戸庶民の窮状を救うため、庶民用の病院を作るべきだと訴えた意見がもとになり実現しました。

小石川養生所の収容人数は40名ほどで7名の医師が診療を担当します。入院患者が増加するにつれ、小石川養生所は規模を拡大させました。

大岡忠相の登用

吉宗は人材登用にも熱心でした。吉宗のもとで最も活躍したのが大岡忠相でした。大岡は江戸町奉行として江戸の町政にとりくみます。1718年、大岡は江戸の防火を担当する町火消しを創設し火災予防に努めました。小石川養生所の設立にも活躍します。

その一方、享保の改革の進展はデメリットも生み出していました。改革が進むにつれ、幕府財政は好転しつつありましたが幕府の緊縮財政などが原因で、享保時代の江戸は不景気となります。

大岡は小判の流通量を増やすため、小判の質を落とすべきだと吉宗に進言しました。米価が上がらず、米で給料をもらう武士たちの生活苦を改善したい吉宗は忠相の進言を採用。1736年に貨幣の質を落とした元文小判を発行します。その結果、米価を含む物価がある程度上昇し江戸は不景気を脱することができました

公事方御定書の制定と相対済まし令

吉宗は法律の整備・編集にも乗り出します。吉宗は老中の松平乗邑をトップとして勘定奉行、町奉行、寺社奉行などをメンバーとするチームを発足させ法律の編纂にあたらせました。1742年、法律集が完成。のちに、公事方御定書と呼ばれるようになります。

公事方御定書は主に庶民を対象とした江戸幕府の基本法典でした。公事方御定書は上巻と下巻からなります。上巻は重要法理令をおさめた法令集、下巻は判例や取り決めなどをおさめた判例集となっていました。

現代の法律とは異なり、一般には公開されず勘定奉行、寺社奉行、町奉行や京都所司代、大坂城代といった要職に就いた人物の身が閲覧を許可されます。また、当時頻発していた金銭の貸し借りに関する訴訟については、相対済し令を出して取り扱いを停止しました。

実学の奨励

吉宗は実学の奨励にも熱心でした。実学とは修得した知識や技術がそのまま社会生活に役立つような学問のこと。そのため、今まで輸入を禁止していた西洋の書物について、キリスト教に関係のないもので漢文に訳されているものなら輸入してもよいというふうに、輸入制限を緩和。技術の導入をはかりました。

吉宗は科学技術を奨励することで、それまで輸入に頼っていた朝鮮人参の国産化に成功します。さらに、飢饉対策としてサツマイモにも注目。大岡忠相が推薦した青木昆陽を登用し、サツマイモ栽培の普及をはかりました。サツマイモのことを漢字で「甘藷」と書きます。そのことから、サツマイモを普及させた青木は「甘藷先生」とよばれました

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