開戦前の元と日本
1268年、フビライは属国となった高麗に対し、日本に使者を派遣するよう命じます。これに従い、高麗の使節が九州の大宰府にやってきました。高麗使はフビライの国書と高麗王の書状を日本側に手渡します。
鎌倉幕府は、外交は朝廷の仕事であるとして京都の朝廷で審議されました。審議は連日続きますが、結論は出ません。1269年にフビライの使者が対馬を訪れますが日本側は受け入れを拒否。交渉は膠着状態となります。
1273年、高麗で元に抵抗していた三別抄が鎮圧されると、フビライは日本侵攻の準備を本格的に開始しました。1274年、フビライは高麗に対し日本遠征のための軍艦建造を命じます。
5月には15,000の日本遠征軍が高麗に到着。総司令官のクドゥンが高麗に着任し日本遠征の準備が整いました。一方、日本側は九州北部を警備するため九州北部の武士たちに防備を固めさせます。
文永の役
1274年10月、元と高麗の連合軍、3万余が高麗を出港します。最初に上陸したのは対馬でした。対馬の宗氏の軍勢は上陸した元軍と戦いますが大きな兵力差の前に敗北します。続けて元軍は壱岐にも上陸。ここでも数の多さに物を言わせた元軍が圧勝しました。対馬・壱岐では多くの島民が殺害され、奴隷として連れ去られます。
10月下旬、元軍は博多湾に上陸。迎え撃った九州の武士たちと激しく戦います。一騎打ちが主流で、騎馬武者が単騎で武芸を競う武士たちに対し、元軍は集団戦法で戦います。さらに、元軍は爆発物である「てつはう」も使用したため、武士たちは苦戦を強いられました。
武士たちは後退し、内陸で立て直しを図ります。元軍はなぜかそれ以上追撃せず、しばらくすると博多湾から姿を消していました。この一度目の元軍と武士たちの戦いを文永の役といいます。
幕府による対抗策と元使の斬首
元軍撤退後、幕府は再度の襲来に備えようとします。幕府は2つの対抗策を考えました。一つは、鎌倉幕府が高麗に攻め込む策です。しかし、この策は見送られました。正確な理由は不明ですが、費用等から考えて現実的ではないと判断したからではないでしょうか。
もう一つの策は防備の強化です。博多湾に上陸され、大軍を展開されてしまうとそう簡単に追い払うことができないのは文永の役の経験でわかりました。それならば、最初から上陸されないよう、海岸に防衛施設を作るべきだという考え方です。
幕府は異国警固番役を発令し九州北部の防備を固める一方、博多湾の周辺には防塁となる石の壁を作らせました。1275年、フビライは日本を服属させるため再び使者を派遣。今度は、使節団は鎌倉に連行され、北条時宗の命令により斬首されます。鎌倉幕府と元の対立は深まる一方でした。
弘安の役
1276年、フビライは弱体化していた南宋に総攻撃を仕掛けます。元軍の総攻撃の前に南宋の都である臨安は無血開城。南に逃げた南宋の生き残りたちも元によって滅ぼされました。これにより、日本を攻めるときに背後を突かれる恐れがなくなります。
フビライは高麗や滅ぼした旧南宋の人々に造船や武器の製造などの戦争準備を命じました。1281年、日本侵攻のための部署である「日本行省」を設置。フビライが本気で戦争準備を進めていることが明白になります。
1281年5月、フビライは文永の役をはるかに上回る軍勢を日本に差し向けました。その数、14万弱。元軍の主力は大宰府攻略を目指して博多湾に到着します。ところが、日本側は海岸の石の防壁をつかって激しく抵抗。元軍はなかなか突破できませんでした。
さらに日本側は船で元軍の船を攻撃し出血を強います。戦いが膠着する中、季節は台風シーズンになりました。7月30日の夜半、元軍の軍船は、襲来した台風により大被害を出します。元軍は戦闘継続が不可能となり撤退に追い込まれました。
元寇の結果、影響
二度の遠征に失敗したフビライは3度目の遠征を計画しますが、あきらめます。日本では元寇をきっかけに鎌倉幕府や北条氏の勢力が全国に拡大しました。その一方、元寇で戦った武士たちは思うような恩賞を得ることができず経済的に苦しみます。幕府は徳政令を出して不満を抑えようとしますが、うまくいきません。幕府に対する御家人の失望感は、やがて幕府滅亡へとつながっていきます。
幕府権力の強化と北条氏による権力独占
文永の役・弘安の役で元軍に勝利した鎌倉幕府ですが、フビライが3度目の遠征を計画しているとの情報も入っていたため、引き続き警戒態勢を維持します。九州の武士は御家人・非御家人を問わず、異国警固番役に動員されました。
と同時に、全国各地で武士たちを国単位で統率する守護の役職を北条氏一門が独占するようになります。元寇の前、5代執権北条時頼の時代に確認できる北条氏の守護の数は15でした。それに対し、元寇後の9代執権北条貞時の時代には北条氏の守護は28とほぼ倍増しています。
鎌倉幕府や北条氏は、元寇という非常事態を利用して権力を拡大させたといってもよいでしょう。守護を北条氏一門に奪われた各地の武士たちは、鎌倉幕府に対して不満を募らせていきます。