恩賞の不足と永仁の徳政令
鎌倉時代の武士(特に幕府に従う武士である御家人)たちにとって、御恩と奉公によってつくられる封建制度はとても重要なものでした。御恩とは将軍や幕府が御家人に土地の支配を保証すること。奉公とは、御家人たちが将軍や幕府のために警備や軍事活動に参加することでした。
特に、戦いを伴う奉公の場合、戦いの功績によって恩賞が与えられます。1221年の承久の乱のときには、幕府の敵となった後鳥羽上皇方の荘園を没収し幕府方の武士に恩賞として与えられました。
しかし、元寇では元に勝利しても御家人たちは新しい土地を得ることはできません。元から土地を奪ったわけではないからです。御家人たちが得た恩賞はわずかなものでした。
御家人たちの中には土地を質に入れて戦費を調達していたものもいたため、わずかな恩賞では借金を返すことができず生活に苦しみます。幕府は御家人たちの借金を事実上帳消しにする永仁の徳政令を出しますが。焼け石に水でした。
元寇で生活が苦しくなった御家人たちの不満を利用した後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼすことに成功した
貧弱な恩賞と北条氏による権力独占は、多くの御家人たちに不満を抱かせました。また、近畿地方などでは幕府の命令に従わない「悪党」とよばれる武士たちが台頭。後醍醐天皇は悪党の楠木正成や有力御家人足利尊氏、新田義貞らの力を使って鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政をはじめます。鎌倉幕府は元寇後の論功行賞に失敗して滅んだといっても過言ではありません。
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