平安時代日本の歴史

新皇を称し関東独立を夢見た「平将門」について元予備校講師が解説

叔父たちや源護との争い

将門と父の所領を横領した叔父たちの仲は良くありませんでした。特に、平良兼とは不和だったといいます。また、国香良兼良正の3人は現地の有力者である源護の3人の娘と結婚していました。このため、将門は源護とも仲が悪かったといいます。こうなると、将門の周囲は敵だらけだったといっても過言ではないでしょう。

935年、源護の3人の息子たちは常陸国野本で将門を待ち伏せして襲撃。合戦となりました。戦いは将門の勝利におわります。将門は勢いに乗って源護の3人の息子を討ち取っただけではなく、叔父の平国香の館も攻め、国香を殺害してしまいました。

同年、源護は婿の一人である良正に敵討を訴え、良正は将門の本拠地を攻めます。しかし、将門は良正の軍も撃破。

敗れた良正は兄の良兼に加勢を依頼します。良正は国香の子である平貞盛も味方に引き入れ、ともに将門を攻めました。ところが、将門は良兼の軍も打ち破ってしまいます。その後、戦いは一進一退を繰り返しますが、最終的に将門が勝利しました。

平将門の乱の結末とその後

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一族内部での争いに勝利した将門の武名は高まりました。将門は国司と在地領主の争いに積極的に関与します。中央から派遣される国司に不満を抱いていた人々は将門を頼るようになりました。将門は常陸の国司と争いになり、ついに国衙を占領してしまいます。ここから、将門は「朝敵」とされてしまいました。「朝敵」となった将門は関東各地を制圧し「新皇」を自称します。しかし、最終的には討伐軍に敗れ将門は処刑されてしまいました。

平将門の乱のはじまり

939年、将門は武蔵国に赴任した国司の興世王や源経基と軍事の武蔵武芝との争いを調停しようとしました。調停はうまくいきそうに見えましたが、最終的には失敗してしまいます。その後、興世王は新任の武蔵国司と争うようになり、将門を頼りました。

また、常陸国の開発領主の一人である藤原玄明は、常陸国司と対立。税を納めず乱暴を働いたとして常陸国を治める国衙(いまでいう県庁にあたるもの)から追捕令が出されていました。その藤原玄明も将門を頼ってきます。こうして、国司と対立する人々が徐々に将門の周りに集うようになりました。

常陸国司は藤原玄明を引き渡すよう将門に要求しましたが、将門はこれを拒否。常陸国司と将門は合戦になってしまいました。戦いは将門が勝利。将門は常陸国衙を包囲します。常陸国司は将門に降伏し国司の印璽を差し出しました。

これまでの争いは、個人間の争い「私闘」とみなされていましたが、国の役人である国司を襲い、国衙を占領したことで将門は「朝敵」とみなされるようになります。

将門、新皇を自称し勢力を拡大

常陸国司を攻撃し、国司の印璽を奪った将門は興世王の進言に従い関東各地の制圧を始めます。940年12月、将門は下野国の国衙を攻め、国司を降伏させました。さらに同月に隣国の上野にも出兵、迎撃に出てきた国司を捕らえ国司の印璽を没収します。

こうして、上野・下野・常陸・下総・上総・安房・相模・伊豆などを影響下に置いた将門は「新皇」を自称し、影響下の国々に国司を任命しました。

ちょうどそのころ、西国では藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こしていました。関東で起きた平将門の乱と瀬戸内海で起きた藤原純友の乱をあわせて承平天慶の乱といいます。反乱の知らせを聞いた朝廷は、直ちに寺社に対して将門や純友を調伏する祈祷を命じました。

討伐軍の派遣と将門の敗北

平将門の乱を知った朝廷は東海道・東山道の諸国に平将門追討の官符を発します。940年、朝廷は参議藤原忠文を征東大将軍に任命し将門討伐のため、関東へと向かわせました。

将門討伐の動きに呼応したのが平貞盛藤原秀郷です。特に、平貞盛は関東で何度も将門と戦いますが、良兼の死去後は劣勢に立たされ将門軍に追い立てられていました。平貞盛は下野の豪族である藤原秀郷とともに将門討伐の兵をあげます。

この時、将門は多くの兵を帰国させていたため、わずかな手勢しか手元にいませんでした。将門は先制攻撃で事態打開を図ります。

940年、将門軍は平貞盛・藤原秀郷の連合軍に攻撃を仕掛けますが敗北。2月14日に将門は討ち取られました。将門討伐の功績により、平貞盛と藤原秀郷には貴族の地位が与えられます。こうして、関東を揺るがした平将門の乱は終息しました。

将門の怨霊伝説

平将門の首は都に送られ、さらし首にされました。将門の首に関しては有名な伝説があります。

都大路にさらされた将門の首は何か月たっても腐らず、目を見開き歯ぎしりしているかのようでした。将門の首を見て、ある歌人が歌を詠むと、将門の首が笑ったとも伝えられます。その時、将門は「俺の胴はどこだ。もう一度、戦をせん」などといったとのこと。

さらに、首は胴体を求めて東の方へ飛び去ったともいいます。首は将門の故郷である下総を目指しましたが、途中で力尽き、現在の東京に落ちました。将門の首が落ちたとされる場所に将門の首塚があります。

大正12年、大蔵省の敷地内となっていた首塚が取り壊され、大蔵省の仮庁舎とされたことがありました。しかし、仮庁舎で多くの死者がでたため、仮庁舎を壊し、首塚を復元したといいます。

また、GHQが首塚周辺を駐車場にしようとした際も、作業員が死亡する事故が起きました。怨霊の真偽はともかく、没後1000年以上も人々の心に影響を及ぼす将門の存在感はすさまじいものがありますね。

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