真田丸の戦い
こうして大坂城を囲んだ20万の軍勢は大坂城に全方位から攻め入り、豊臣家の砦を落としていきますが、南だけでは徳川軍が苦戦する事態に陥ります。豊臣家の武将真田信繁は大坂城の南側に真田丸のという出城を築き、ここに徳川軍は進撃。この進撃に対して真田信繁は相手をわざとおびき出してそこから十字砲火を浴びせ、徳川軍を撃退に追い込みました。
ここから徳川軍は突撃によって大坂城を攻めるのではなく、じっと待って囲むという消耗戦を展開していくようになります。
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決定打を与えた大砲攻撃
真田丸にて敗北を喫した徳川軍でしたが、ここから方針転換して消耗戦にシフトチェンジをしていくようになります。
徳川軍はあれやこれやの方法で徐々に大坂城を削っていくのですが、その消耗戦の主役となったのが南蛮から輸入した大砲。この時の大砲は弾は爆発せず、制度はお世辞にも良いものとは言えないものでしたが、問題はその音。大砲を打つ音はとんでもないぐらいやかましく一説には大坂城に向かって放たれた大砲の発射音は京都にまで聞こえたと言われています。
豊臣秀頼は立派な武将となっていたので問題ないのですが、問題なのは母の淀殿の方。淀殿は二度も落城を経験しており、もはやトラウマといってもいいほどのものでした。淀殿からしたら大砲の発射音が徐々にストレスとして溜まっていったのではないのかという説があります。
さらに決定打を与える出来事として精度が悪かった大砲の弾がなんと天守閣にクリティカルヒット。これが淀殿が一転講和姿勢に向かったといわれており、これを受けて豊臣家と徳川家は淀殿の妹である常高院(お初 京極高次の正室)と徳川家康の側室である阿茶局の間で和議が取り交わされ、大坂冬の陣は終結しました。
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和議の問題点と大坂夏の陣の序章
こうしてなんとか和議を取り付けた豊臣家でしたが、この和議の内容というのが完全に豊臣家にとったら不利なものだったのです。
まず問題の一つに挙げられるのが堀の埋め立て。大坂城というものは堀が幾重にも重なっているからこそ堅城として成り立っているのであって堀が埋められたら大坂城にこもる意味がなくなってしまいます。
さらに、三の丸と二の丸も破壊。真田丸も破却されついに防御施設としての大坂城は無くなってしまったのでした。
しかし、家康は豊臣家を完全に潰さなければならないと考えており、1615年の春になると豊臣家に対して浪人が暴れているとして家康は豊臣家の浪人の全員解雇か豊臣家の大和郡山への転封を命令。豊臣家からしたら浪人を全員解雇したら徳川軍が一気に攻めてくるというのは火を見るよりも明らかですし、大和郡山への転封も一応秀吉の弟ゆかりの地でありながらも大阪を手放すという決断は出来ません。
そして豊臣家がこの二つの案を拒否したと知ると家康は再び豊臣家討伐を開始。大坂夏の陣が始まるのでした。
大坂夏の陣の全貌
こうして再び大坂にて起こった戦い。家康はこの時の大坂城の堀を埋め立てており、家康お得意の野戦に持ち込ませることに成功します。しかし、豊臣家も最後の意地を見せて戦国最後の戦いは幕をあげたのでした。
道明寺の戦いと八尾・若江の戦い
こうして始まった大坂夏の陣。この時の両軍の兵力差は豊臣家10万、徳川家30万となっており、さらには野戦となっているため数で押せてしまうという絶望的な状態となってしまいます。こうして余裕となった徳川軍は特に守りが無い南を中心に軍を構え野戦が開始しました。5月6日豊臣軍と徳川軍は道明寺付近で激突。この戦いによって後藤又兵衛は討死。八尾・若江の戦いでは木村重成などが討死してジリジリと豊臣軍は押され始めていきます。そして5月7日には天王寺まで後退。しかしここで豊臣軍が最後の賭けをしたのです。
天王寺・岡山の戦い
5月7日、この日豊臣軍は天王寺付近に兵を結集し、10万の兵が構える徳川軍と対峙。この時部隊を指揮していた真田信繁は最後の希望を託して2万の兵で守られている徳川本陣に突撃を開始。家康を一気に討ち取って形勢を一気に逆転しようと仕掛けます。この突撃によって徳川軍は家康の馬印が倒れたりするなど一時大混乱に陥りましたが、なんとか立て直し豊臣軍の主力部隊を壊滅に追い込み、真田信繁などが討死。
こうして主力部隊を失ってしまった豊臣軍は守りがほとんどない大坂城へと退却したのでした。