流言の拡散と自警団による暴行・殺害
地震発生直後、治安の維持などを目的とした自警団が各所で結成されます。そのころ、地震発生の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こすとの流言が広まっていました。山本内閣は、朝鮮人に不穏の動きがあれば軍や警察が取り締まるとして、民間人である自警団に自重を求めます。
いくつかの新聞では、朝鮮人が混乱に乗じて破壊活動や暴動を起こすことを警戒する内容の記事が掲載されました。自警団は朝鮮人であるかどうかを判別するため、ガ行が語頭にある言葉を言わせるなどします。これは、朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、語頭のガ行の発音が不自然になることを利用したものでした。
自警団に質問され、ガ行がうまくいえないと暴行・殺害される事例が相次ぎます。こうした混乱は10月には終息に向かいました。
関東大震災からの復興と震災の影響で起きた不況
第二次山本内閣は内務大臣の後藤新平を中心に震災からの復興を果たそうとします。しかし、後藤の復興案は既得権者の反対にあい縮小せざるを得ませんでした。震災の発生は企業の経営を極端に悪化させます。支払い不能となった企業や企業に資金を貸し出していた銀行を救うため、日本銀行の特別融資や震災関連の借金返済を猶予する命令が出されますが解決せず、日本は震災恐慌へと突入してしまいました。
後藤新平を中心とした東京の復興
9月2日に発足した第二次山本内閣は内務大臣の後藤新平を中心に東京復興をめざします。9月27日、震災からの復興を担当する帝都復興院を創設。内務大臣の後藤新平が総裁を兼任しました。
後藤は遷都せず、欧米の都市計画を採用し断固たる計画実施を実行するとして東京復興の策を考えます。この時の復興計画で、現在の東京の街並みの土台が作られました。
ところが、後藤の案に既得権を持つ人々が猛烈に反発。後藤の案は後退を余儀なくされました。しかし、後藤はこの状況でもあきらめません。道路の拡張や防火地帯の設置などの区画整理では可能な限り妥協せず、自分の案を実行しようとしました。
この結果、幹線道路や生活道路が整備され、各所に火除け地となる小さな公園を設置します。現在残る靖国通り、昭和通り、晴海通り、八重洲通り、明治通りなどの幹線道路や墨田公園、浜町公園などもこのとき整備されました。
大阪の発展
1920年代、大阪は東京に次ぐ大都市として大きく発展しつつありました。関東大震災の発生を受け、東京や関東周辺から新たな住居を求めて大阪に流入。人口が一気に増加しました。
1925年には西成郡や東成郡を編入します。その結果、面積181平方キロメートル、人口は211万人を数え、震災復興半ばの東京を上回る規模となりました。この時代の大阪を「大大阪」とよぶこともあります。
大阪では商業・紡績・鉄鋼などの産業が栄え、経済の一大中心地として活気があふれていました。大規模な近代建築が次々と建てられたのもこの時代のことです。
勢いがあった大阪は、大阪城天守閣の再建や御堂筋の拡張工事、地下鉄御堂駅線の建設など次々と大規模プロジェクトを実行に移しました。
震災恐慌と震災手形の発行
関東大震災は人的被害もさることながら、巨額の物的被害ももたらします。被害総額は60億円以上とされ、多くの工場・店舗・商品が焼失しました。
震災の発生は、第一次世界大戦直後の戦後恐慌から完全に立ち直っていなかった日本経済にとって大きな打撃となります。政府は支払猶予令の公布や救済融資のための公債発行をおこないましたが、不景気はおさまりませんでした。
こうした関東大震災が原因の不景気を震災恐慌と呼びます。震災で被害を受けた企業が発行した手形(借金を支払う約束を記したもの)が返済不能となり、手形を引き受けた銀行は窮地に陥りました。日本銀行が特別融資を実施することで一時的にしのぎますが、不況を解決するには至りません。
金融恐慌の発生
関東大震災の為、支払いが不能になった手形のことを震災手形といいます。政府はおよそ2年間で震災手形を処理するつもりでした。しかし、混乱に乗じて本来なら震災と無関係の不良債権まで震災手形として申請されるなどしたため、震災手形の規模が拡大。膨大な不良債権が発生したため、政府の予定は狂ってしまいます。
政府は震災手形を抜本的に処理するため、帝国議会で処理法案を審議させていました。その審議中、大蔵大臣片岡直温が失言したことから銀行の取り付け騒ぎが発生。さらに、かねてから経営危機に陥っていた政府系銀行の台湾銀行救済問題なども絡んで銀行の大規模休業が発生してしまいました。
時の内閣総理大臣若槻礼次郎は責任を取って総辞職。次の田中内閣の大蔵大臣高橋是清による3週間にわたる支払猶予令などにより混乱はようやく終息します。関東大震災に端を発した1920年代の経済不況は、その後の軍部台頭の温床となりました。