アメリカの歴史独立後

「I_Have_a_Dream」理不尽な差別と戦った「キング牧師」の偉業・生涯とは?

度重なる苦難の果てに…

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By Rowland Scherman – This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 542069., パブリック・ドメイン, Link

バスボイコット運動が成功したからといって、黒人差別がなくなったわけではありません。マーティンを襲う苦難はまだまだ続きます。ノーベル平和賞を受賞するまでの彼の足跡を見ていきましょう。

「座り込み運動」と「自由のためのバス運動」

マーティンが指導した反差別運動は、様々な人たち。特に学生に大きな影響を与えました。発端はノース・カロライナ農工大学の学生が駅食堂の中で、「黒人に食べさせるものはない!」と追い出されたことから始まります。それを耳にした学生たちが食べ物が提供されないまま、ずっと居座り続けるボイコット運動を始めたのです。

1960年、やがて彼らに共鳴した学生たちが増え続け、「座り込み運動」は他の州へも飛び火し、社会現象になりました。もちろん次々に逮捕者を出し、白人側から迫害や暴力を受けますが、それでも非暴力を貫きました。学生たちは粘り強く運動を続け、やがて南部各州の50もの都市に広まっていったのです。

そのことに共鳴したマーティンたちも、「自由のためのバス運動」と名付けた運動を行いました。白人黒人双方の志願者の中から6人ずつを選び、南部各州の差別状況を調査するというものでしたが、それを阻止しようとする白人団体から暴力などの迫害を受けました。それに対して警察は見て見ぬふりを決め込み、助けようとはしません。

しかし、彼らのこの行動は決して無駄ではありませんでした。その年の11月以降、バスの車内にはこのような表示が掲げられたのです。

「州商業委員会の命により、座席には人種、肌色、信条、国籍の区別なく座ることを許可します。」

マーティンの投獄と「バーミングハム・キャンペーン」

反差別運動が盛り上がる中、白人差別主義者の妨害も日増しに強くなり、アラバマ州バーミングハムで運動を続けていたシャトルワース牧師は、マーティンに協力を要請。快諾したマーティンはさっそく1962年4月、「バーミングハム・キャンペーン」を開始しました。

マーティンが先頭に立ち、黒人白人の有志たちが続いて讃美歌を歌いながらデモ行進するというものでしたが、ここでマーティンはじめ有志たちは警察によって逮捕されてしまいます。それでもマーティンが拘束されている間にも、他の有志たちはデモ行進を続け、警官たちは気を失うまで殴りつけたり、警察犬をけしかけたりして妨害を続けました。

マーティンは保釈金を支払って出所することができましたが、ここで思いがけない手段に訴えます。それは子供たちの参加を募ろうということ。もちろん自由意思を確認してのことでしたが、自発的に運動に加わろうとする子供たちが6千人も登録されることとなり、大きな力となりました。

彼らは歌を歌いながら平和的にデモ行進を行いますが、警察は容赦ありません。子供たちを捕まえては刑務所へどんどん送り込んでいったのです。警察のパトカーは学童でいっぱいになってしまったので、警官は学校のスクールバスを護送用に使ったといいます。

しかし、彼ら彼女らの痛ましい受難が輝かしい勝利を呼び込むことになりました。ついに連邦最高裁判所は「バーミングハムの人種差別法令は憲法に違反する。」とし、差別廃止条令を下したのです。

「I_Have_a_Dream」(今日、私には夢がある)

1963年8月、職と自由を求めた「ワシントン大行進」の一環として25万人近い人々がワシントンDCに集結しました。5人に1人は白人で、参加者たちはワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで行進したのです。その中には賛同する著名人も多く、ボブ・ディランなどもいたそうですね。

この日、最後の演説者となったマーティンが述べたこの一説があまりにも有名ですよね。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「べての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢がある。

今日、私には夢がある。

引用元 「米国の歴史と民主主義の基本文書」より

 

翌年、米国連邦議会は「1964年公民権法」を通過させました。公共の場における人種分離を禁止し、人種や民族に基づいた偏見的な雇用を違法とするもので、最も合理性がありかつ実用的な公民権法だといえるでしょう。

1964年、ローマ教皇に謁見したマーティンが帰国してみると、驚くような知らせが待っていました。なんとノーベル平和賞を受賞したというビッグニュースでした。

その後もマーティンは、引き続いて差別撤廃運動やベトナム反戦運動などに身を投じ、暴力を使うことなく人々の共感を得続けました。1968年、彼は凶弾に斃れ、39年の短い生涯を閉じることになりました。しかし、彼の意思を継ぐ人々がなお存在する限り、「差別との戦い」は終わらないのです。

キング牧師(マーティン)は今でも、白人と黒人が仲良くなれるよう祈り続けているのかも知れませんね。

キング牧師の意思を継ぐ者

image by PIXTA / 7952819

2009年、アメリカで黒人初のオバマ大統領が誕生したのは記憶に新しいところ。もしマーティンの公民権運動がなかったら、それは叶わないことだったのかも知れません。しかし差別とは本当に根強いもの。世情が不安定になった時ほど、不満や鬱積のはけ口が弱い存在へと向かうものなのです。よく「差別」「区別」だなんて、したり顔ですり替えをしている人をよく見かけますが、筆者からすれば「誰がそんなことを決めたの?」としか言いようがありません。「差別感情」というものは、人間の心の闇でしかない。ということなのでしょう。

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明石則実