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神仏の破壊者になった【大友宗麟】神の国を造ろうとした男をわかりやすく解説

大友宗麟がキリスト教へ改宗に至った理由を探ってみる

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By 不明 – 大徳寺塔頭瑞峯院蔵, パブリック・ドメイン, Link

大友宗麟がキリスト教へ改宗したのが、運命の「耳川の合戦」の直前だった1578年7月のこと。初めて宣教師たちと出会ってから30年近くが経過していました。なぜ彼はキリスト教に傾倒していながらずっと改宗しなかったのか?また、突然なぜ改宗したのか?核心となる謎に迫っていきましょう。

大友家臣団に気を使って改宗ができなかった

大友氏の当主が絶対的な権限を持っていたとしても、臣下となる家臣団はそれぞれに領地があり、独自の軍事力を持つ武士たちの集まりでした。のちの江戸時代とは違い、この当時の武士たちはサラリーマン化しておらず、自分たちの主張が通らない場合は離反したり、反乱を起こすことが珍しくなかったのです。

宗麟自身も、「もし改宗すればたちどころに家臣に殺され、王位を逐われることになりはしないか。」と宣教師たちに語っていたようで、有名なキリシタン大名だった有馬晴信の父義貞も同様のことを言っていますね。

 

「家臣たちの理解が未だ至らないので、自分はキリシタンにはならない。」

引用元 「エヴォラ版 日本通信」より

 

いくら当主がキリスト教に入信したといっても家臣に強制できませんし、何より武士というものは神仏の加護を何より大切にする存在です。日頃から「八幡大菩薩」「摩利支天」などの軍神を崇め、吉兆による戦いの帰趨を見極めることこそ肝要だと考えていた武士たちにとって、キリスト教は奇異な存在として映っていたことでしょう。

そのような古いしきたりや迷信、日本古来の神仏を信じていた臣下の武士たちを納得し、理解させることは難しいことだったでしょうね。

父と同様にキリスト教に改宗した嫡男大友義統は、国内の寺社を迫害し破壊したことでも有名ですが、家臣から「なぜそのようなことをするのか?」と問われた時に、「仏僧たちは偽善を重ね、悪徳に満ちており、彼らの祈禱と犠牲とは、何の役にも立って来なかった。あの信長ですら畿内で同じことをやったが、彼は神や仏から決して罰を受けず、却って彼の事業は、その度にますます繁栄したではないか。」と答えました。

しかし家臣は納得せず、義統をこう批判したそうです。「信長は単に『敵か味方か』を問題にしただけであり、敵でもない寺社には干渉しないものであった。信長のまね事をして、罪なき寺社を破却する義統の行動というものは、信長のまね事をする以前の愚行だ。」と。

こうした家臣団の反発を恐れた宗麟は、いったん自分の気持ちを封印し、隠忍自重することになったのです。

正妻にほとほと嫌気がさす宗麟

宗麟は正室の奈多夫人の他にも側室が7人もいたほどの好色家だったらしく、晩年になるや奈多夫人とも疎遠になっていったようですね。結局は離縁し、いったん隠居した後は城を出て、別宅を構えますが、ここで別の女性と同居し結婚することになるのです。その相手が、実は息子の義理の母だというややこしい関係なのですが、元来嫉妬深かった奈多夫人は、国中の僧や山伏を搔き集めて昼夜の別なく宗麟と新妻を呪詛します。呪詛というのは「怨みある人間を呪う」ということですね。

それを知った宗麟は烈火のごとく怒りますが、奈多夫人は嫡男はじめ子供たちの生母ですし、多くの重臣にも連なる血統の持ち主。罰を授けることすらできません。そこで宗麟は思い切った手段に訴えることに。

日本の呪詛調伏に対抗するべく、なんと新妻をキリスト教へ入信させたのです。キリスト教徒になれば、日本の呪詛など効果はないだろうという純粋な思いからでした。またこの出来事によって、宗麟の神仏嫌いにも拍車が掛かるようになったのです。積もり積もった神仏への嫌悪感と、キリスト教への期待感は、やがて宗麟をキリスト教改宗の道へいざなうことになりました。

窮鳥懐に入る。日向国にキリスト教国を!

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そんな宗麟をめぐる環境に変化があったのは1577年のこと。隣国日向国(現在の宮崎県)の戦国大名伊東氏島津氏に敗れ、豊後へ落ち延びてきたのです。伊東氏と同盟関係を結んでいた宗麟は、援助要請を受けるや直ちに出陣準備に掛かりました。この事件をきっかけに宗麟の決心が固まった瞬間でした。

翌1578年に日向へ向けて進軍を開始した大友軍について、フロイスの下記の書簡が残っています。

 

「豊後国王と嫡子はこちらから、かの地にある神、仏の僧院と神殿を焼き破壊するよう命じ、そのように実行された。かの地に再び入植し、妻と共に隠居するため、今年王自らかの地に赴くことに決め、司祭には次にように伝えた。」

「彼自ら日向に向かい、同地の生まれで全員キリシタンになるべき人々の他、彼と共に滞在する兵三百のみを伴って行く決心であること、かの地に建設予定の都市は日本のそれとは異なる新たな法と制度のもとに統治されるべきこと、日向生れの人々が彼やその家臣とより良く統合されるには全員がキリシタンとなり、兄弟のような友愛と絆のうちに生活するのが適切であり、そのために司祭一人と修道士数名の同行を希望すること、彼もまたかの地で洗礼を受ける決心であること。」

引用元 「報告集Ⅲ ルイス・フロイス書翰」より

 

日向を宗麟自らの隠居地とし、妻と共に赴き、日向出身の人々を全員キリシタンにして新たな法と制度を持ったキリスト教国家を建設する。これが宗麟の考えた理想郷の姿でした。

大友の領国ではない場所なら、家臣たちの不満も起こりませんし、何より自分は隠居の身。誰からも文句を言われない状況を作り上げようとしたのでした。どうせキリスト教国になるのだから、神社や寺院などもはや必要ありません。進軍の途上で次々と破壊し、焼いていったのです。

ついに夢と消えたキリスト教国

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宗麟が心の安寧を求めて築こうとしたキリスト教国の理想は、しかし、ついに叶うことはありませんでした。日向での戦い「耳川の合戦」であえなく大敗し、その後は北上してくる島津軍の攻撃に対して防戦一方となってしまったからです。豊臣秀吉の援軍によってなんとか滅亡こそ免れますが、宗麟の死後、嫡男義統の代に不手際によって改易された後は、もう二度と豊後に戻ることはできなかった大友氏。しかし宗麟のキリスト教への想いや理想は、九州の地で連綿と受け継がれていったのでした。

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明石則実