室町時代戦国時代日本の歴史

日本銀の最大産出地「石見銀山」って?歴史や見どころをわかりやすく解説

石見銀山争奪の歴史

銀山の利益に目を付けたのは大内氏だけではありません。山陰を支配する戦国大名、尼子氏も石見銀山に狙いを定めます。1537年、尼子経久は石見に侵攻。大内氏の手から石見銀山を奪い取りました。大内氏は2年後に奪還しますが、その2年後に尼子氏は付近を支配していた小笠原氏の後ろ盾となって銀山を支配します。

大内氏が毛利元就によって滅ぼされたのち、毛利氏が石見銀山を支配しようとしました。しかし、尼子による守りは固く、1559年の降露坂の戦いで毛利軍は尼子軍に敗退。銀山は尼子氏の支配したにあり続けました。

1561年、尼子晴久が急死し尼子氏内部で動揺が走ると、毛利元就は尼子氏に圧力をかけ石見国および石見銀山の支配権を手中におさめます。以後、石見銀山は毛利氏による支配をうけるようになりました。

江戸幕府による石見銀山支配

1600年、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は毛利氏の領国を現在の山口県にあたる周防国、長門国に限定。それ以外の地域は没収し、関ケ原で功績があった大名たちや江戸幕府の直轄領として分割します。

石見銀山を含む邇摩(にま)郡大森など4郡は幕府直轄領である天領とされました。家康は石見銀山奉行として大久保長安を送り込みます。長安は家康から経理の才能を認められ、全国の金銀山の統括も任されました。長安が石見銀山で採掘させた銀は家康が推し進めていた朱印船貿易の原資として活用されます。

石見銀山でとれた銀は、日本海沿岸の港から出荷されていました。しかし、冬の日本海はしばしば悪天候に見舞われます。そこで長安は銀山のある大森から広島県尾道までの銀山街道を整備。安定的に銀を出荷する体制を整えました。

17世紀に入ると石見銀山の産銀量は減少し始めます。1675年、石見銀山奉行は大森代官に格下げになり、次第に重要性が薄れていきました。

世界遺産、石見銀山のみどころとは

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2007年、石見銀山は世界遺産として登録されました。自然に配慮した開発が決め手となり、満場一致で世界遺産に登録されます。世界遺産登録に伴い、2008年に石見銀山世界遺産センターが開設されました。このほかにも、銀山町として栄えた大森の町並みや今に残る大久保間歩などの採掘坑跡も石見銀山の見どころです。

石見銀山世界遺産センター

2007年10月、世界遺産条約の規定に基づき、石見銀山世界遺産センターが建設されました。センターは、石見銀山の情報発信や資料の蓄積、銀山遺跡の管理・保全などを行う拠点施設と位置付けられます。施設内の展示棟では、世界に影響を与えた石見銀山の存在意義や石見銀山の歴史、鉱山の採掘技術などを解説。世界遺産としての石見銀山の意義を紹介しています。

開館時間は午前8時30分~午後5時30分。展示室の閲覧時間は午前9時から午後5時までです。休館日は毎月最終火曜日と年末年始。入館料は一般300円、小中学生が150円です。

毎週水曜日と木曜日には江戸時代に使われた銀貨である丁銀づくりの体験をすることができますよ。石見銀山についてしっかりとまとめられている施設なので、石見銀山を訪れた時には、ぜひ、訪ねてみることをお勧めします。

銀山で栄えた大森の町

石見銀山のおひざ元として栄えたのが大森地区です。大森地区には古くからの建物が残っていて、銀山町の雰囲気を味わうことができますよ。大森地区は江戸時代に奉行所や代官所が置かれ銀山周辺地域の中心となりました。

大森地区にある城上神社(きがみじんじゃ)には大久保長安ゆかりの能面などがあります。15世紀に大内氏によって大森町愛宕山に移された城上神社は16世紀後半に毛利氏によって現在の場所に遷座されました。

神社の拝殿天井には極彩色の竜の絵が描かれています。竜の絵の下で手をたたくと、天井がリンリンと鳴ることから「鳴き竜」とよばれました。

また、大森代官所跡にある石見銀山資料館もありますので、足を運んでもよいでしょう。

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