剣豪将軍、最後の奮戦
異様な物音に、義輝たちはすぐ異変に気づきました。
軍勢の数は2千とも1万とも伝わっています。対する義輝たちはわずか数十人。
瞬時にすべてを悟り、覚悟を決めた義輝は、側近たちと別れの盃を交わし、30人ほどを引き連れて打って出たのです。その奮戦はすさまじく、1人で数十人を仕留めた者もいたとか。
義輝自身は、剣聖と謳われた塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事したことがあり、奥義を授けられるほどの剣豪だったそうです。
そして、彼がその腕を振るい、伝説となったのがこの最後の戦いでした。
義輝は、足利将軍家伝来の名刀の数々を畳に突き刺し、使っていた刀がダメになると、次の刀を引き抜いて再び敵に対峙し、多くを斬り捨てていきました。その強さには敵も怯み、手出しの出来ないような状態になったと言われています。
歴史に残る壮絶な最期
しかし、あまりにも多勢に無勢。あとからあとから沸いて出る敵の前に、義輝が少し隙を見せた瞬間、敵兵たちは四方から畳を持って義輝に押しかかり、その動きを封じました。そして、畳の上から次々に刃を突き刺し、とどめをさしたのです。享年30。まだまだこれからという時に、若き将軍は壮絶に命を散らしたのでした。
家臣たちもみな討死を遂げ、義輝の実母は自害し、子供をみごもっていた愛妾は殺されました。
これが、後に「永禄の変」と呼ばれる事件です。
辞世の句があまりにもかっこいいと評判
義輝は、最後の戦いに打って出る直前、辞世の句を詠みました。
「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) わが名をあげよ 雲の上まで」
(五月雨は雨なのか私の涙だろうか…ほととぎすよ、どうか私の名を雲の上まで伝えてほしい。誇り高く戦った私の名を)
多くの戦国武将たちが辞世の句を残しましたが、義輝の句はその中でも最も人気がある部類に入り、かっこいいと評判です。
義輝の志を受け継ぐ者は現れず…
義輝亡き後、三好三人衆と松永久秀に翻弄された室町幕府は、やがて義輝の弟・義昭(よしあき)の代で終焉を迎えることになりました。義輝が取り戻そうとした権威はついに回復されることはなかったのです。義輝は生まれるのが遅すぎました。もう少し早く生まれていれば、室町幕府は少しでも違う運命を辿ったかもしれない…と思います。
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