3.関ヶ原の戦いで負けてしまった幸村
天下分け目の決戦!関ヶ原の戦いといえば皆さんご存知でしょう。秀吉がなくなり次の天下を狙う徳川家康率いる東軍と、秀吉の忘れ形見の豊臣秀頼を天下人と担ごうとする西軍が、東西に別れ名誉と命をかけた大決戦!幸村は、どのように乱世を生き延びたのか…!
3-1どちらにつくかが人生の岐路!「犬伏の密議」
関ヶ原の戦いが起こる2ヶ月前の真田家は、秀吉の力添えで和睦した徳川家康に伴い、会津(現:福島県)へ遠征に向かっていたのです。途中の犬伏で、石田三成から家康征伐に協力を求める書状が届きました。判断を誤っては真田家が滅びると、3人は必死に話し合いました。密談中には、昌幸の怒鳴り声が聞こえてくるほどの緊迫ぶりだったとか。
長男の信幸は徳川家の重臣本田忠勝の娘で家康の養女「小松姫(こまつひめ)」を妻にしており、幸村は西軍についた大谷吉継の娘を娶っています。最終的には、石田三成と友人だった昌幸と幸村が三成らの西軍に、信幸は家康率いる東軍につきました。どちらが勝つか分からない決戦、真田家が生き残るための最善策だったのです。
信幸は幸村に、「父上と嫡男の俺が真田家を背負えばいい。お前は、真田という武士の名を背負って戦え!」といったとか。この後、真田家は2つに分かれ、信幸は沼田城へ、昌幸と幸村は上田城へと向かいました。違う運命をたどる信幸と再び会うことはなかったようです。
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3-2戦略家の真田親子は、関ヶ原の戦いの裏で勝っていた
慶長5(1600)年9月に昌幸を大将とした、二度目の上田城の戦いがはじまります。今回の敵徳川秀忠は3万8000もの兵を連れており、真田軍はたった3000の兵力しかなく秀忠は絶対に勝てると踏んでいました。秀忠は幸村が陣取る戸石城に、信幸の忠義心を試すため向かわせたのです。幸村は、兄と戦うのを嫌い城を開城した後、父のいる上田城へと引き上げています。
上田城に到着してすぐに秀忠は降伏するよう使者をよこしました。昌幸は「降参するからちょっと待ってくれ!」といったっきり2日間放置。その後、「誰が降参するものか。ろう城の準備は整った。」と返事をしたのです。
初陣で手柄を焦った秀忠は、知恵者真田の戦略にまんまとはまり上田城を攻撃しました。実は、秀忠軍を関ヶ原の決戦に参加させないよう足止めする目論見だったのです。作戦は成功!幸村が城外の染谷台に陣を敷き奇襲攻撃をしかけました。家康の後継者にもかかわらず秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わず大失態。後で家康から大目玉を食らっています。上田城での戦いは西軍の真田が勝ったものの、関ヶ原の決戦で勝利したのは家康率いる東軍でした。
3-3関ヶ原の敗者幸村は九度山へ追放
真田家が秀忠軍3万8000もの兵を足止めしても、西軍は勝てませんでした。家康は昌幸と幸村を処刑するつもりでしたが、命を救ったのは家康についた信幸でした。恩賞を返上し助命の嘆願を必死に行い、妻の父本田忠勝の力を最大限に使ってやっと許されたのです。兄信幸は父からもらった名前の「幸」の字を捨て、「信之」と改名しています。
流石にお咎めなしとはいかず、九度山(現:和歌山県九度山町)に流されました。謹慎生活は想像を絶する厳しさでした。父と弟を思う兄信之の仕送りが頼りの生活。あまりの辛さに姉に「歯も抜け、髭も白髪の方が多くなってしまいました。どんどん老いていくのが悔しい。」と手紙に書いたようです。
幸村らが暮らした住居跡は現在善名称院(通称:真田庵)となっており、その近くには大坂城に向かう際逃亡に使った「真田の抜け穴」と呼ばれる古墳のような穴も残っています。
ちょっと雑学
真田紐ってご存知でしょうか?九度山での蟄居生活が貧乏で辛いものだったので、昌幸たちは内職をして生計を立てました。木綿の糸などを平らに織った丈夫な「紐」を作ったのです。この「真田紐」を家臣に売り歩かせ、家計の足しにしたとか。
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