安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

家康をも震撼させた!日本一の兵「真田幸村」の獅子奮迅の働きぶりを徹底解剖

4.活躍の時が巡ってきた!大坂の陣

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By うぃき野郎投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

関ヶ原の戦いから14年後のこと。豊臣方の生き残りが反旗を翻しました。48歳で幸村にやっと起死回生のチャンスが訪れたのです。忍者たちに情報を集めさせ再起を願って日々鍛錬を欠かさなかった、父昌幸は残念ながら蟄居中に亡くなっています。

4-1徳川家康を倒せ幸村!大坂冬の陣

秀吉が生前京に建てた方広寺が地震で崩壊し、秀頼が供養のために再建し鐘も新しく作りました。鐘に彫った文字の内、「国家安康」と「君臣豊楽」の8つを見て、家康は自分の名前を分断して呪い、豊臣の繁栄を願っていると激怒し大阪攻めを命令したのです。それを聞いた秀頼は、今こそ関ヶ原の恨みを晴らす時だと戦に備えました。

この旗揚げは幸村にとって歓喜の一言。見張りの浅野家将兵を酔わせて、妻子と共に大坂城に向かいました。城につくと浪人など10万もの兵が集まっていました。幸村が秀吉の人質になって暮らしたのが、当時建てたばかりの大坂城でした。幸村は美しく大きな城での生活を、夢を見ているようだと思っています。憧れの城を守る戦には、遣り甲斐を感じたことでしょう。

4-2大坂冬の陣での痛手

豊臣軍の策は城に籠城して戦うというもの。幸村は、平地からの守りが空堀しかない大坂城唯一の弱点だった城の南部分に、徳川勢の侵攻を防ぐ役目を担う「真田丸」という砦を建てました。徳川軍より高い位置に作っており、深さ約6~8mの掘りで囲んだ上に三重の柵も設置しました。高い位置にいくつもの櫓を建て、敵の動向も容易に探っていたようです。真田丸から、集中砲火を浴びせ、更に塀をよじ上ってくる敵に容赦なく鉄砲や矢、槍で攻撃しました。

真田丸周辺には、徳川軍4万3000の兵が。対して豊臣軍は幸村の兵5000を含む2万8000だったとか。鉄壁の砦というべき真田丸からの攻撃は、1日にして目標にした前田利常軍の数百もの兵を殺し、和解を考えさせるほど。真田丸以外の戦いは惨憺たるもので、冬の陣は和睦で終わりました。

和睦交渉の間に徳川軍から、信濃10万石での寝返りを迫られましたが、幸村の心は決して動きません。大坂城の天守や大広間にも球を撃ち込まれたため、7~8人の次女が亡くなりました。淀殿が怖気づき豊臣軍が精神的に追い詰められ、家康からの和睦要求を安易に飲んだのです。豊臣の領地と豊臣秀頼と淀殿の身の安全を保証し兵たちの罪は問わないまでは良かったのですが…。

二の丸と三の丸の解体と、周囲の砦や柵などの防御の拠点を徹底的に壊されます。城の強みである天然の外堀や内堀まで埋められ丸裸になりました。もちろん、守りの要「真田丸」も解体。これは、次の戦に備えての家康の知恵でした。和睦にのったことで豊臣家の敗北は決定的になったのです。

4-3家康挙兵!今度こそ家康の首を取れ!大坂夏の陣

家康は和睦条件を果たした後に豊臣軍大将の秀頼に、「往生際が悪いぞ秀頼!大坂城を出るか、城内の武将を追い出せ!」と、要求してきたのです。これを断り、埋めた堀を再び作り始めたことで和解に反したと家康は挙兵しました。幸村の頭の中には、秀吉への恩に報いるため、家康の首を討つことだけ。丸裸になった大坂城でのろう城戦はもはや皆無。城外で戦うしかないと決めていました。家康軍の兵は15万で対する豊臣軍は約7万と数でも敗北は濃厚だったのです。家康の隊をひとつずつ潰す作戦を立てます。

豊臣軍の大野治房が大和郡山城を落とし、堺まで足を延ばすも失敗。濃霧のため味方の到着が遅れてしまい、後藤又兵衛が大阪の道明寺で伊達政宗に敗れ討ち死に。そこに幸村が駆けつけ、政宗軍の侵攻を食い止めました。家康と秀忠の本陣を、木村重成と長曾我部盛親が攻めるも、藤堂高虎と井伊直孝に攻撃され撃沈。木村重成が討ち死にしました。

4-4真田幸村の生きざまを見よ!大坂夏の陣

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いよいよ、豊臣軍の敗北が濃厚となってきました。幸村は、茶臼山に陣を敷き、家康の本陣を攻めたのです。茶臼山は大坂冬の陣では家康の本陣があった場所で、幸村は家康の首を討つには正面突破しかないとここに陣を置きました。一際目を引く赤一色の幸村の軍が家康本陣を守っていた松平忠直の軍を何とか突破し、3度に渡って家康本陣を攻撃したのです。幸村なんぞに首を取られてたまるかと、家康は切腹を考えたほど。井伊直孝と藤堂高虎が参戦し、周囲の説得で家康は切腹を諦め命からがら本陣から逃げ出しました。

家康の首は取れませんでしたが、幸村の力は強く家康の本陣の旗を倒したとの説もあります。幸村は自分の命を惜しむことなく、家康の首を取れるなら名武将として華々しく散るとの覚悟をしていました。豊臣軍はこてんぱんに打ちのめされ軍は乱れ兵は散り散りに。幸村も兵と離れてしまい、安居神社で休息を取っていたところを、越前(現:福井県北東部)松平家の西尾仁左衛門に討たれたのです。

仁左衛門に「真田幸村殿か?」と尋ねられた時、「いかにも。私の首を手柄にされよ。」と答えたとか。人質の幸村を可愛がってくれた秀吉への恩に報いるべく最後まで戦った幸村を、家康軍の武士たちもあっぱれと幸村の遺髪を皆が欲しがったとのエピソードも残っています。その裏には、兵の士気を上げるために戦場に来てほしいとの要請があっても、大坂城から一歩も出なかった徳川秀頼の女々しい姿があったからかもしれません。

夏の陣7日目に大坂城が炎上。城の中では混乱した兵士たちが次々と切腹したようです。そんな中、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の妻千姫を城からだし、家康に秀頼と淀殿の命乞いをさせましたが、家康が首を縦に振ることはありませんでした。8日目に秀頼と淀殿が自害したことで豊臣家は滅びました。実は、幸村の息子で14歳の真田幸昌も、大坂の陣に参加していました。冬の陣では幸村と共に真田丸で戦い、夏の陣では大坂城で最後まで秀頼の側に仕え共に切腹しています。

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