室町時代日本の歴史

足利義満はなぜ「金閣寺」を建てた?歴史や北山文化の特徴をわかりやすく解説

応仁の乱や廃仏毀釈、放火による炎上。金閣寺を次々と襲った危機

足利義満がこの世を去っておよそ60年。金閣寺を最初の危機が襲います。室町幕府を揺るがす大事件となった応仁の乱の勃発です。応仁の乱は京都市中の多くの寺院を焼きましたが、鹿苑寺も戦火を免れることはできませんでした。しかし、金閣にあたる舎利殿は焼失を免れます。他の建物も江戸時代までにほとんど再建することができました。

二度目の危機は明治維新。新政府の成立と政策の転換により、金閣寺は持っていた寺領のほとんどを返上したため、経済的基盤を失ってしまいました。金閣寺の住職は財源を確保するため、金閣を拝観料を取ったうえで一般公開します。これにより、寺の収入は確保され廃寺とならずに済みました。

最後の危機は戦後の1950年。放火により金閣が全焼してしまいます。金閣は国や京都府の支援と多額の寄付金により1955年に再建されました。1994年に世界遺産の指定を受けた金閣寺は今も多くの人々で賑わっています。

金閣寺に代表される北山文化

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室町時代の文化は、3つに区分されます。一つは室町時代初期の南北朝時代の文化、二つ目は3代将軍足利義満の時代に全盛期を迎える北山文化、三つ目は8代将軍足利義政のころに花開く東山文化。義満の時代の北山文化は勘合貿易とともに流入した明の文化や禅宗の文化を軸とする文化です。北山文化についてまとめてみましょう。

北山文化全体の特徴

北山文化とは、3代将軍足利義満のころの文化のこと。義満が京都北山に営んだ山荘(今の金閣寺)に由来します。平安時代から続く伝統的な公家文化と、新興の武家文化が融合することで誕生した文化でした。

勘合貿易が盛んにおこなわれるようになると、明の漢詩文化に触発された臨済宗五山派の僧侶たち五山文学を作り上げます。五山派の寺院は五山・十刹とよばれる仕組みによって統制され、室町幕府の保護を受けました。

また、禅宗の重要な要素である水墨画の技術が日本で普及するのも北山文化の特徴です。水墨画は次の東山文化の時代に雪舟が登場します。このころ、義満は観阿弥、世阿弥父子の芸術活動を保護・支援しました。彼らは能楽を大成します。

五山文学や水墨画などに代表される禅宗の文化

鎌倉時代の末から室町時代の前半にかけて、臨済宗五山派の僧侶たちを中心とした漢詩文学が生まれました。この文学を五山文学といいます。勘合貿易が盛んになると、幕府の外交文書の作成に五山僧たちが携わるようになりました。代表的な文人として虎関師錬絶海中津義堂周信などがあげられます。

五山文学の中身は、詩文、日記、論説など幅広い分野に及びました。五山文学では新しい文章を作り出すだけではなく、中国の古典や宋・元の時代の文章の研究もおこなわれます。こうした研究は江戸時代の儒学を作り出す藤原惺窩や林羅山らにも大きな影響を与えました。

また、室町時代は水墨画が隆盛した時代でもあります。北山文化のころにあらわれる如拙が描いた瓢鮎図(ひょうねんず)や周文の寒山拾得図(かんざんじっとくず)などが描かれたのは北山文化のころでした。

観阿弥、世阿弥による能の大成

観阿弥、世阿弥父子は北山文化のころに活躍した能楽師。能楽は、平安時代以来続いてきた猿楽に由来します。大雑把に言えば、能は謡曲、音曲、舞の三要素でできているとされ、謡曲は能の台本、音曲は能で歌われる曲、舞は能で見られる踊りをさしますよ。

能といえば、思い浮かべるのは能面ではないでしょうか。能に使用される能面といえば、代表的な女性の能面である「小面」、老人の能面である「」が有名ですよね。

本来、変化するはずのない能面が演者の動きや見る人の角度によって微妙に異なって見えることがあります。これも、能の魅力ですね。世阿弥は能の理論書である『風姿花伝』を残しています。観阿弥や世阿弥が能に打ち込むことができたのは、足利義満の保護があってこそでした。

 

京都の象徴として多くの観光客に愛される金閣寺

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近年、日本を訪問する外国人観光客が増加の一途をたどっているそうです。なかでも、京都や金閣寺は人気スポット。日本人の観光客も多く訪れ、修学旅行では定番の訪問先ですよね。金閣寺は、京都にとってなくてはならない観光スポットとして今も健在です。この素晴らしい歴史遺産を、次の世代にもしっかり残したいものですよね。

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