日本の歴史明治

東アジアの歴史を大きく変えた「日清戦争」ー背景・経緯・その後などわかりやすく解説

黄海海戦と日本軍の清国領進撃

日本は朝鮮海峡や黄海での制海権を取るため、清国の北洋艦隊を撃滅しようとしました。しかし、北洋艦隊は消耗を恐れ、威海衛の基地に閉じこもってなかなか出てこようとしません。

9月17日、輸送中の陸兵部隊の護衛のため出撃してきた北洋艦隊と決戦の機会を狙っていた日本の連合艦隊が黄海で遭遇。戦闘を開始しました。海戦は日本軍の圧勝に終わり、北洋艦隊は主力艦を失って母校の威海衛に引きこもります。

制海権を得た日本軍は10月に清国領内へと兵を進めました。11月、日本軍は重要拠点である遼東半島の旅順を制圧。1895年の2月には北洋艦隊の根拠地である威海衛を攻撃し、降伏させました。陸海の戦いにやぶれた清国は戦争継続の意欲を失います。

日清戦争の終結とその後

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威海衛が陥落し、北洋艦隊を失った清国は戦意を喪失。両国は下関条約を締結します。中国進出を虎視眈々と狙っていたロシアはフランス・ドイツとともに三国干渉をしかけ、遼東半島を清に返還させました。日本は下関条約で得た台湾の開発をおこないます。その一方、清国の弱体ぶりは周知のこととなり、列強の中国分割は一層激しくなりました。

下関条約の締結と三国干渉

清国全権の李鴻章は全権委任状をもって下関に来訪。日本側の全権である伊藤博文首相と陸奥宗光外相は下関の春帆楼で李鴻章との交渉に臨みます。1895年4月、両国の話し合いが成立し、下関条約が締結されました。

第一に清国は朝鮮の独立を認めること、第二に清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲すること、第三に清国は賠償金2億両を日本に支払うこと、第四に清国は日本に通商上の特権を認めること、第五に、清国はこれまでに欧米列強に認めた貿易港のほか、長沙・重慶・蘇州・杭州を開市することなどを定めます。

下関条約の内容を知ったロシアはドイツやフランスとともに、日本に対して遼東半島を清国に返還するよう要求しました。日本の遼東半島領有は極東の安全を脅かすというのが遼東半島返還を要求した理由でした。ロシアなどによる要求を三国干渉といいます。日本は圧力に屈し、遼東半島を返還せざるを得ませんでした。ロシアの干渉を知った日本の人々の間ではロシアに対する反発が高まります。

日清戦争の賠償金の使い道

日清戦争で得た賠償金のうち、半分以上は軍備拡張費に当てられます。日本にとって、清国に勝利した今、最も警戒すべき国はロシアでした。ロシアと戦うにはまだまだ日本の軍事力は弱すぎます。陸軍・海軍ともに、日清戦争以上に増強する必要がありました。

また、賠償金の一部を日本銀行に蓄え、金本位制を実施します。金本位制とは、発行した紙幣を必ず金と交換することを保証する制度で、政府は金の保有量に見合う紙幣を発行しました。金による裏付けができるようになった日本紙幣の価値は安定。外国との貿易がしやすくなりました。

その他の使い道として、八幡製鉄所の建設があげられます。重工業化を進めるうえで製鉄所の建設が不可欠だったからでした。日清戦争の賠償金を富国強兵につぎ込んだ日本は、10年後に大敵ロシアと戦うことになります。

欧米列強による中国分割の加速

日清戦争で清国が敗北したことで、清国の弱体ぶりが世界中に知れ渡りました。欧米列強はここぞとばかりに清国に進出します。列強は清国から重要地点を次々と租借しました。租借とは国土を相手国に貸し出すこと。これにより、列強は清国の法律が及ばない租界を中国各地につくりだしました。

また、列強は中国での鉄道敷設権も清国から得ます。鉄道には周辺の鉱山開発権なども付属することが多く、列強は好き勝手に中国の資源を採掘することができるようになりました。

清国は列強によって分割され、半植民地化してしまいます。危機感を持った光緒帝や若手官僚たちは近代化を目指す改革を実施しますが、西太后をはじめとする保守派のクーデタにより改革は挫折してしまいました。清国は国力を回復することができず、1911年の辛亥革命で滅亡します。

清国に勝利した日本は南下してきたロシアと対立する

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日清戦争に勝利し、多額の賠償金と台湾や澎湖諸島などの植民地を得ます。日清戦争で清国の弱体化を確信したロシアは露骨に南下を開始。義和団事件をきっかけに中国東北部の満州に居座ってしまいました。日本は自国の影響下に置いた朝鮮を守るため、欧米列強の一角であるロシアと対決することになります。

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