平安時代日本の歴史

5分でわかる日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳院)生涯や理由をわかりやすく解説

2.日本三大怨霊【菅原道真】

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前置きがかなり長くなりましたが、それでは日本三大怨霊を一人ずつ見ていきましょう。まず一人目は、「学問の神様」として尊敬されている菅原道真。彼の事績をひも解きつつ、なぜ死後に怨霊となり、最後は怨霊とは真逆の「神様」になったのでしょうか。

2-1.若くして才能を発揮する道真

菅原道真は845年生まれ。さほど身分の高くない貴族の家に生まれましたが、幼い頃より学問の才能を発揮し、「神童」だと周囲からもてはやされていたようです。

870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官すると、めきめきと昇進していきました。また高級貴族の代筆をおこなったり、文章博士として後進の育成に携わるなど、朝廷きっての文才だと謳われたのです。

当時から摂政・関白を歴任していた藤原氏から気に入られていたようで、政治闘争や揉め事などに介入しつつ折衝役を務めることもありました。文才だけでなく、政治手腕にも長けた道真の存在は徐々にクローズアップされることとなりました。

2-2.宇多天皇に抜擢される

宇多天皇の近臣だった橘広相が死去すると、天皇は片腕になるべき者として道真を大抜擢しました。この抜擢は異例中の異例だったようで、世の人々はみな驚いたそうです。

長く続いた遣唐使を思い切って廃止としたのは道真の功績ですし、宇多天皇は何をするにもまず道真に相談したといいますから、天皇の信任ぶりは厚かったようですね。

さらに道真は自分の長女を天皇の女御(にょうご)とし、三女もまた天皇の皇太子の妃としました。いわば皇室と血縁で結ばれる形となったわけです。

これまで皇室と姻戚関係を結んでいた摂関家藤原氏が、道真に対して眉をひそめるのは無理もありません。徐々に危機感を持ってくるのは当然の成り行きだったことでしょう。

2-3.道真の絶頂期

899年、右大臣を務めていた源能有が死去したことにより、その大任が道真に譲られることとなりました。最高職ともいえる右大臣に就任したのです。

左大臣は藤原時平が就いていたため、これで藤原氏と肩を並べる地位にまで出世したことを意味します。やがて宇多天皇は地位を退き、次の醍醐天皇にも道真を重用するよう求めたといいますね。

しかし頭の切れる道真は、自分が右大臣に就任すると必ず嫉妬や不満が起こり、悪いことが起こることがわかっていたのでしょう。いったん辞退しますが、許されなかったそうです。

また道真の旧友も「このままでは足をすくわれることになる。引退して余生を楽しんだ方が良いのでは?」とアドバイスしていますね。しかし不幸はすぐそこまで来ていたのでした。

2-4.道真、失意のうちに死去

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ところが901年のこと、菅原道真は突如として遠い九州の大宰府に左遷されてしまいます。罪状は上皇の信任を裏切り、道真の娘が嫁いでいた醍醐天皇の弟を皇位に就けようとしたこと。

道真にはまったく身に覚えがありませんでしたが、やはり道真の出世を妬んだ左大臣藤原時平ら延臣たちの策謀だったのです。宇多上皇は道真の身の潔白を証明するべく醍醐天皇を訪ねますが、天皇は面会すらしません。

醍醐天皇もまた口うるさい道真を煙たがっていたためにこれに同調したのでした。道真の息子たちに対しても流罪の沙汰が下ります。流刑同然に大宰府へ赴任した道真は、そのまま失意のうちに2年後に死去し、邪魔者を消し去った時平らの専横が続くのです。

2-5.次々に不幸を起こしていく道真の怨霊

ところが、その頃から次々と京の都で怪異が起こり始めるのです。道真の左遷を聞いて、釈明するべく天皇の元へ駆け付けようとした宇多上皇でしたが、それを阻止しようとした藤原菅根が突然死去。

翌年になると藤原時平が後を追うように亡くなり、その後も道真の左遷に関わった延臣たちが次々に死亡します。さらには醍醐天皇の皇太子までもが幼くして亡くなりました。

やがて道真の死から20年。脅えた朝廷は、道真を右大臣の官位に復させるものの怪異は収まりません。当時は怨霊を鎮めるために、あえて高い官位を贈ったりするなど懐柔策が取られていました。

930年には御所の清涼殿に落雷があり、この時のショックで寝込んだ醍醐天皇は3か月後に死去。さらに936年には政敵だった時平の長男が死亡。あまりの不幸続きに人々はみな道真の怨霊を恐れ続けました。

2-6.怨霊を鎮めるためにあらゆる手段が尽くされる

こうして長きにわたって京の都を恐怖に叩き込んだ道真の怨霊ですが、やがて神様として祀られることになります。

道真の怨霊を鎮めるためにあらゆる手段が尽くされました。流罪になっていた息子たちを呼び戻して復職させ、道真の御霊(みたま)に正一位太政大臣の位が授けられました。また清涼殿落雷事件以来、道真は雷神として崇められていたため「天神さま」と呼ばれるようになりました。

鎌倉時代の絵巻物「北野天神縁起」によれば、ある時、都の西に住む多治比文子(たじひあやこ)という娘に、「一条大宮の北にある右近の馬場に社殿を結ぶように」との天神さま(道真の霊)のお告げがあったそうです。彼女は貧しいゆえに社殿を造ることができず、小さな祠をつくり祀ることにしました。

2-7.「学問の神様」となった道真

いっぽう同じ頃、近江国比良宮の神官だった神良種(みわのよしたね)の息子にも同じように「右近の馬場へ社殿を建てよ」とのお告げがありました。

良種は我が子に乗り移った天神さまの言葉を聞き、同じくお告げを聞いた京の文子らと協力して、近くの寺院の僧侶たちの支援を得ました。そして翌年、京都北野の地に道真の御霊を祀ったとされています。これが北野天満宮の創建だとされているのです。

以来、北野天満宮では天神さまが祭神となり、中世に入ると道真の怨霊伝説も下火となり、その後は九州の太宰府天満宮ともども、文学の才並びなき生前の道真にあやかって「学問の神様」として尊崇されてきました。

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明石則実