平安時代日本の歴史

5分でわかる日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳院)生涯や理由をわかりやすく解説

4-1.崇徳上皇はどんな人だった?

1123年、幼くして天皇となりますが、その生い立ちは非常に複雑で不幸に満ちたものでした。また22歳の若さで無理やり譲位させられて上皇となりますが、実権すらなく、お飾りとしての立場だったといいます。

いっぽうで文芸に傾倒し、様々な和歌集を選集させたことで知られていますね。当時の歌壇は崇徳上皇を中心に回っていたと表現しても良いでしょう。

しかしその晩年は後述するように、とても上皇とは思えないほどの悲惨ぶりで、怨霊になるべくしてなったと言っても過言ではありません。

4-2.崇徳の不幸な半生

1123年、白河上皇は20歳の鳥羽天皇を無理やり退位させ、鳥羽帝の息子であるまだ3歳の崇徳天皇を即位させました。こともあろうに白河上皇は、鳥羽天皇の妃と密通しており、産ませたのが崇徳天皇だったのです。

鳥羽天皇は上皇となりますが、ことあるごとに崇徳天皇を嫌い、白河上皇が亡くなると今度は崇徳を強引に退位させ、2歳の近衛天皇を即位させました。崇徳にも息子はいましたが、わざわざ幼児を即位させたあたり、かなりの嫌がらせを行ったのですね。

ところが近衛天皇が16歳で亡くなると、「崇徳が呪ったためだ!」という噂が流れます。謂われなき放言に不満を募らせた崇徳上皇は、鳥羽上皇の死後に皇位を奪うため、後白河天皇に対して戦いを挑みました。これが保元の乱と呼ばれる戦乱でした。

結局、崇徳上皇は敗れ出家します。当時は慣例として、皇族が乱を起こしても出家さえすれば罪に問われなかったはずですが、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流されるという厳しい処分を受けました。

4-3.朝廷を呪い尽くす魔王の誕生

崇徳上皇は配流先で、先の保元の乱で戦死した者たちの菩提を弔い、自らの反省を込めて写本作りに精を出し、それを京都の寺に納めてほしいと懇願しました。

ところが後白河天皇は訝しみ、「これには呪詛が込められているのではないか?」と真意を疑い、送り返してしまいました。それを知った崇徳は憤激し、自分の舌を噛み切り、送り返された写本に血で呪いの文言を書きつけ瀬戸の海に沈めました。

 

「我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん!」

 

この皇室への呪詛の言葉を吐くとともに、崇徳はそれ以来、髪や爪を伸ばし放題にし、鬼のような形相へと変わっていったのです。まさに「呪いの魔王」の誕生でした。

4-4.崇徳の呪いによって衰えていく朝廷

やがて崇徳上皇は亡くなるものの、朝廷は次々に不幸に見舞われていきます。平治の乱では、写本の受け取りを拒否した張本人だった藤原信西が殺され、後白河天皇側だった源義朝も殺されました。

次の二条天皇が23歳で病死し、その跡を継いだ六条天皇もわずか12歳で死亡。1178年の大火事では大極殿を含む京都の多くが灰燼に帰しました。

その後鎌倉幕府が開かれ、朝廷側にとって乾坤一擲の大勝負となった承久の乱を起こしますが、幕府軍に完膚なきまでに叩き潰され、後鳥羽上皇は隠岐島。順徳上皇は佐渡島。土御門上皇は土佐へ配流となったのです。

崇徳上皇の呪詛の言葉「皇を取って民とし民を皇となさん!」は文字通り、皇を民とするために流人としての境遇に落とし、身分の低かった民(武士)の地位を、幕府という「皇」に引き上げたのでした。

人智を超えた現象が「怨霊」の存在となった

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現代でこそ、天変地異や疫病の発生などのメカニズムは判明していますが、昔の人間にとってそんなことはわかりません。人智を超えた現象を説明するためには、神や、霊魂や、人間の情念などが絡んでいると解釈されていたのです。「怨霊」なんてその最たるものでしょう。今では迷信に過ぎないことが真剣に信じられていた時代だったわけですね。

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明石則実