アケメネス朝ペルシアの滅亡
エジプトを制圧したアレクサンドロスはシリアからペルシア帝国の中枢部であるメソポタミア・イランへと兵を進めます。イッソスの敗戦から軍を立て直したダレイオス3世は、ガウガメラの地でアレクサンドロス軍を迎撃しました。
ペルシア軍は戦象部隊まで動員しますが、アレクサンドロス軍の速攻の前に再び敗れ去ります。ダレイオス3世は軍を立て直そうとしますが、臣下たちは彼を見限り、次々とアレクサンドロスに降伏。ダレイオス3世は東へと逃れました。
アレクサンドロスはガウガメラで勝利した後、ペルシアの首都ペルセポリスを略奪し焼き払います。こうして、ダレイオス1世の時代からギリシアの宿敵として存在したアケメネス朝ペルシアは事実上滅亡しました。
続行された東方遠征とアレクサンドロスの東方化
ペルセポリスが陥落し、ダレイオス3世が部下に殺されアケメネス朝ペルシアが滅んだあとも、アレクサンドロスは東方遠征は継続させようとします。アレクサンドロスは、ペルシア打倒のため編成したコリントス同盟の軍をいったん解散。新たに東方遠征軍を組織し東方遠征を続行しました。
また、アレクサンドロス自らペルシア風の衣装を身にまとい、アケネメス朝の後継者として振舞い始めます。さらには、自らの神格化を図りました。こうした振る舞いは、ギリシア人やマケドニア人からは忌避され、アレクサンドロスに対する反発を生むことになります。
アレクサンドロスは中央アジアのソグディアナで連戦を続け、ついにはインドに侵入しインダス川にまで達しました。しかし、彼の部下たちはこれ以上の東方遠征を望みません。やむなく、アレクサンドロスは軍を西へとかえします。
大王が作り上げた帝国と大王の若すぎる死
アレクサンドロスの帝国は、本国のマケドニアをはじめとし、小アジア、シリア、エジプト、メソポタミア、イラン、中央アジアのソグディアナ、バクトリアなど地中海東岸からオリエントに広がる広大な帝国となりました。
インダス川流域から軍を返したアレクサンドロスはメソポタミアのバビロンで熱病にかかり32歳の若さでこの世を去りました。
アレクサンドロスの死の直後、王妃ロクサネが息子を生みますが、まだ幼いため後継者の座をめぐってアレクサンドロス配下の将軍たちが争い始めます。この戦争を後継者(ディアドコイ)戦争といいました。
何度かの争いの後、大王の帝国はセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、カッサンドロス朝(のち、アンティゴノス朝)マケドニアなどに分割されます。
大王の子であるアレクサンドロス4世は、争いに巻き込まれ14歳で暗殺され、大王の直系の血筋は絶えました。
大王の遺産であるヘレニズム文化
アレクサンドロスの東方遠征は、西方のギリシア文化と東方のオリエント文化を融合させる役割を果たしました。ギリシア本土のポリスによる政治が限界を迎え、ポリスの枠にとらわれない生き方を目指す世界市民主義や個人の降伏をめざす個人主義などが発達します。ヘレニズム文化はのちのローマにも大きな影響を与えました。
ヘレニズム文化とは何か
ヘレニズムという言葉は、ギリシア人が自分たちのことをヘレネスとよび、自分たちの土地をヘラスとよんだことに由来しました。日本語に直訳すれば、「ギリシア風」の文化となります。アレクサンドロスの東方遠征によってもたらされたギリシア風の文化が、東方のもともとあったオリエント文化と融合してできた文化がヘレニズム文化でした。
ヘレニズム文化の中心地はエジプトのアレクサンドリアやシリアのアンティオキアです。特にアレクサンドリアには王立研究所であるムセイオンが建てられ、自然科学の研究が盛んにおこなわれました。
平面幾何学を大成したエウクレイデス(ユークリッド)や浮力や、てこの原理で知られるアルキメデス、地球の自転と公転を唱えたアリスタルコス、地球の全周を想定したエラトステネスなどがヘレニズム時代の代表的な自然科学者です。
ヘレニズム文化の伝播
ヘレニズム文化はアレクサンドロス大王が結びつけたギリシア・オリエントから世界各地に伝播します。ギリシアの西方にあったローマは、ギリシア文化とともにヘレニズム文化も受け入れました。
ヘレニズム時代に発達した哲学である禁欲主義のストア派はローマ時代の哲学者であるセネカ、哲人皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスにも影響を与えます。
また、ヘレニズム時代に生み出された彫刻の様式などは東方のガンダーラに伝えられ、シルクロードを通じて中国や日本にも影響を与えました。ヘレニズム地域のヘラクレスがガンダーラでは仏教の執金剛になり、日本でも執金剛神として祭られているのがわかりやすい例でしょう。