TAKARAZUKA_REVUE!~宝塚歌劇団100年の歴史と時代を彩ったトップスターたち~
宝塚歌劇を彩ったトップスターたち♯2【春日野八千代】
戦前~戦中~戦後にかけて最も長い期間、宝塚歌劇団に在籍した男役トップスターです。
「白薔薇のプリンス」と呼ばれて人気を集め、それまでの男役といえば女性らしさが抜けなかった時代に、立ち居振る舞いからすべて「男」になり切るという徹底したストイックさだったそうです。
私生活でもファンからの目を意識して男役っぽく振舞っていたとか。
~戦後の復興期~宝塚歌劇の人気が再燃!
By 投稿者がスキャン – 「夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史」, パブリック・ドメイン, Link
暗い戦争が終わり、ようやく日本にも平和な時代がやってきました。そんな中、宝塚歌劇団は食料も物資もない時代に「夢と希望」という大事なモノを人々に与えようとしていたのです。
待ちに待った劇場公演の再開
敗戦後、宝塚歌劇団の劇場はGHQによって接収され、関係者ですら中に入ることは許されませんでした。しかし、米軍関係者を慰問するために歌劇を上演したところ、これが大変に好評を博し、1946年、最前列の席をGHQのために確保することを条件に宝塚大劇場の公演再開が許されたのでした。
再び灯りをともした舞台の壇上で、トップスターの春日野八千代はこう挨拶しました。
「天国にいる方々に約束します。永久に、清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを。」
雑誌も復刊し、1948年には長らく途絶えていた星組が復活し、10年ぶりに4組が揃いました。また、1951年初演の「虞美人」は3ヶ月続演して30万3千人を動員し、大劇場入場者数の最多記録を更新したのです。
戦後の長くつらく貧しく苦しかった時代、映画と共に宝塚歌劇が人々の希望の光となったことは言うまでもないでしょう。宝塚歌劇で経験を積んだ淡島千景や乙羽信子、越路吹雪たちは、退団しても映画や歌唱の世界で活躍し続けました。
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創始者「小林一三」の死と、相次ぐ芸術祭受賞
1955年、東京宝塚劇場において星組「虞美人」が上演されて公演を再開。ハワイでも公演が実施されて人気を博しました。敗戦から10年が経過し、宝塚歌劇は押しも押されぬ国民の娯楽コンテンツになっていたのです。
そんな矢先の1957年、宝塚歌劇の創始者であった小林一三が、心臓性喘息のため死去しました。宝塚大劇場では小林のために「宝塚音楽学校葬」を盛大に執り行い、その時には大阪じゅうのタクシーが宝塚に集まって来ていたといいます。
しかし創始者の死という悲しい出来事にも関わらず、宝塚歌劇の歩みは止まりません。1958年には関西テレビとのコラボ番組「宝塚テレビ劇場」がスタートし、形を変えながら1995年まで続きました。
さらには1960年、星組「華麗なる千拍子」が寿美花代の主演で上演され、なんと延べ80万人もの観客を動員、演劇の最高峰といわれる芸術祭賞を受賞しました。翌年に上演された「火の鳥」もまた、その高い芸術性によって二年連続での芸術祭賞を受賞するという快挙を成し遂げたのです。
宝塚歌劇を彩ったトップスターたち♯3【寿美花代】
いわずと知れた俳優高島忠夫の妻であり、これまた俳優の高嶋政宏、政伸兄弟のお母さんですね。
1951年の公演「蜂蜜の冒険」で、風邪で舞台に立てなくなった出演者の代わりに主役を張り、その存在感が認められてトップスターへの会談を昇りつめました。
男役でしたが、芸術祭賞を受賞した「華麗なる千拍子」の中で、羽根の付いた衣装を着てパイナップルの女王に扮した妖艶な美しさが人気をさらい、その主題歌も大ヒットしました。