室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代に翻弄された姫たちーーその身に降りかかった悲劇の数々とは?

一族皆殺しの犠牲者となる

天正16(1588)年、鎮房は長政の招待を受け、中津城(大分県中津市)へと向かいました。途中の寺に家臣たちをとどまらせると、鎮房はわずかな供を連れて城に入り、宴の席につきましたが、そこで黒田の手の者により暗殺されてしまったのです。寺にいた家臣たちも皆殺しにされ、別の場所にいた鶴姫の祖父や兄も殺されてしまいました。

父が暗殺されたその日のうちに、鶴姫の命運も決まりました。13人の侍女たちと磔の刑に処せられたのです。

閉じ込められていた部屋の外から、自分が磔にされる柱を作る音を姫は聞いたと言います。何と残酷な話でしょうか。

しかし、姫は静かに歌を詠んだと言います。

「なかなかに きい(城井)て果てなん 唐衣 たがためにおる はたものの音」

「はたもの」が持つ二つの意味「機織り」と「磔」を掛け、城井氏が果てることに覚悟を決めたのでした。まだ13歳だったそうです。それでこの落ち着きは、やはり、死と隣り合わせて日々を生きる戦国時代に生まれた姫だったからでしょうか。

最期まで夫に寄り添い続けた北条夫人

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北条氏康(ほうじょううじやす)の娘であった北条夫人は、武田信玄の息子・武田勝頼(たけだかつより)に嫁ぎ、武田氏滅亡と運命を共にしました。実家に戻る機会はあったのですが、彼女自身がそれを拒み、夫のそばにいることを望んだのです。滅亡へと向かう武田氏の女性として誇り高き最期を遂げた彼女について、ご紹介しましょう。

関東の雄・後北条氏の姫として、武田勝頼に嫁ぐ

永禄7(1564)年、北条夫人北条氏康の六女として生まれました。父・氏康は関東における覇権を確固たるものにした英雄で、彼女はその姫君として何不自由なく成長していったのです。

そして天正5(1577)年、14歳で彼女は武田勝頼に嫁ぎました。

武田勝頼は織田信長の娘を正室としていましたが、その正室が亡くなってしまったことや、織田との関係が悪化したこともあり、後北条氏との結び付きを強めるために北条夫人を妻に迎えたというわけです。

年齢差は18歳もあり、典型的な政略結婚ではありましたが、夫人と勝頼の仲はきわめて良かったそうですよ。しばしの間、2人は幸せな生活を送ったのでした。

徐々に傾く武田氏、そして実家とは疎遠に

しかし、武田勝頼の斜陽は、長篠の戦いでの敗北以降、急速に強まっていきました。

また、天正6(1578)年に越後(えちご/新潟県)の上杉謙信が亡くなると、後継者争いとして起きた乱では、勝頼が後北条氏から上杉氏に養子に入っていた夫人の兄を援護することなく、敵方に加担したため、武田氏と後北条氏の同盟関係が決裂することとなってしまいました。このため、夫人は心中とても苦しい思いをしていたと考えられます。

一方、勝頼は、北条夫人の立場も考えて、彼女を実家に戻そうと提案しました。しかし、夫人はきっぱりとそれを断り、もはや後北条氏の姫ではなく武田の女として生きる道を選んだのです。実家と疎遠になっても、夫の方が大事だと思うようになっていたのですね。

実家には戻らず、夫と運命を共にする

ただ、天正10(1582)年、武田氏は最期の時を迎えます。織田信長と徳川家康の連合軍の侵攻の前に、武田軍は敗れ、一門すら勝頼を見捨て始めたのです。この間にも、北条夫人は懸命に武田の安泰を祈願し、勝頼への加護を神に祈りましたが、それが功を奏することはありませんでした。

そして、勝頼はついに追い詰められます。頼ろうとした家臣にまで裏切られ、行き場を無くした彼は、再度夫人に実家に戻るように言いつけました。しかしそれでも、夫人は首を縦に振らず、夫と運命を共にするという決意を表したのです。

夫人は辞世の句に、遠く離れてしまった実家への思いを込めました。

「帰る雁 頼む疎隔の 言の葉を 持ちて相模の 国府(こふ)に落とせよ」

(帰っていく雁よ、長く疎遠にしてしまったお詫びの言葉を、相模(さがみ/神奈川県)の小田原に運んでくれないでしょうか)

こうして北条夫人は自害を遂げ、19歳の生涯を終えました。勝頼やその息子も自害し、これで戦国大名としての武田氏は滅亡したのです。

生前、武田氏の菩提寺の住職は、夫人を気高き淑女と称賛していたと伝わっています。まさにその通りの、気高い最期を迎えた北条夫人なのでした。

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