日本の歴史

蝦夷地から北海道までの歴史をわかりやすく解説〜北の大地に夢を託して〜

そうだ!蝦夷地に行こう!松浦武四郎の蝦夷地紀行

 

江戸時代も終わりにさしかかっていた1818年。この年伊勢国松坂でとある人物が生まれました。その名は松浦武四郎。のちに北海道の命名者となる人物です。松浦武四郎の父親は庄屋としてある程度のお金は稼いでおり、さらには優れた学者のもとで学問を学ぶなど教養深い人物でもありました。

そんな彼が趣味としていたのが旅行。武四郎が生まれた伊勢国松坂は江戸時代における一大旅行スポットであった伊勢神宮のお膝元でもあったことからか武四郎は全国各地からやってくる旅行客に興味津々。16歳の時に江戸へと一人旅をしたことを皮切りに日本百名山などにも登るなど旅行ライフを満喫していました。

そんな中1844年にある転機が。当時武四郎は長崎で僧侶として生活していましたが、長崎からの情報によると本州の北側に大きな大地があるというもの。「これは行くしかない!」そう決心した武四郎は僧侶をやめて一人で蝦夷地へと向かうこととなりました。

アイヌ文化に触れる松浦武四郎

松浦武四郎による蝦夷地の探検は6度にわたり、その前半の三回が自らが、後半の三回が幕府の公認としての調査としてでした。

武四郎は連れ添いとともに蝦夷地へと渡ることになるのですが、その旅路は驚くことばかり。この頃蝦夷地には日本人が住んでいましたが、それでも渡島半島の南端ぐらい。函館ぐらいしか住んではおらず、札幌などではいまだにアイヌ人が暮らしていました。武四郎はそんな蝦夷地に住んでいるアイヌ人に興味津々。6度の調査の折にアイヌ人の協力を得て、アイヌ人の文化や生活、社会や言語などのアイヌ人の様々な事を学んでいったそうです。

武四郎の出身国である伊勢国の44倍の土地を持つ蝦夷地を徒歩で周り、様々なアイヌ人文化に触れた武四郎の記録は文字を持っていないアイヌ人のことについての貴重な資料として認知されるようになり、4回目の調査からは幕府の役人として蝦夷地を調査することとなったのでした。

北海道に込められた武四郎の思い

調査をしているうちに日本では明治維新を迎え、時代は江戸時代から明治時代へと移り変わっていくことになります。幕府に代わって日本を動かすことになった明治政府は当時ロシアと近く、日本の国防のために重要とされた蝦夷地を詳しく知っている人を探しており、大久保利通の推薦もあって蝦夷地に開拓使が置かれるとその開拓使のNo.3の開拓判官に任命されることになりました。

明治政府は開拓使の設置に伴い、蝦夷地に代わる新しい名前をつけようとしましたが、武四郎はそれにふさわしい名前をいくつか用意してその中の一つが採用されることになったのです。それが今でも使われている北海道の原型である北加伊道だったのでした。

なぜ北加伊道にしたかというと、ほっかいどうのカイはアイヌ語でアイヌ人のことを指す呼び名だったのです。武四郎は北加伊道という名前の中にこの地はアイヌ人の土地だという事を込めて名付けたことがわかりますよね。

その後北加伊道のカイの部分はという字が当てられ、現在の北海道という名前に変わることになったのですが、武四郎は出来るだけ北海道の地名をアイヌ由来の名前にしようと奮闘し、札幌(サッポロペッ 乾いた広大な川という意味)や、知床(シレトコ 地の果てという意味)や、苫小牧(トマクオマナイ 沼の奥にある川という意味)など様々な地名の名前が採用され、今の北海道の名付け親と言われる由縁を作ったのでした。

北海道の開拓と苦難の歴史

image by PIXTA / 20533193

こうして蝦夷地は北海道に名を変え、明治維新を迎えましたが果たしてどのようにして日本人は原野が生い茂る北海道の地を開拓していったのでしょうか?次はそんな北海道開拓の歴史を見ていきましょう。

箱館の開港と箱館戦争

1853年に浦賀にペリーが来航。翌年には日米和親条約によって日本はこれまで徳川家光の時代からの方針であった鎖国を取りやめることになりました。日米和親条約では箱館と下田が港として開港。さらに日米修好通商条約では正式に貿易港として日本で有数の港湾都市として名を馳せることとなります。

しかし、本州ではこの日米修好通商条約を機に倒幕が加速。1867年には大政奉還によって幕府は正式に幕を閉じることとなりました。しかし、旧幕府軍は幕府をなんとか立て直そうと躍起となり戊辰戦争が勃発。鳥羽伏見の戦いや会津戦争を経て榎本武揚は箱館の五稜郭に籠城して独立国家を打ちたてようとしますが新政府軍の攻撃によって降伏。この箱館戦争と呼ばれる戦争が終結したことによって戊辰戦争は正式に終結したのでした。

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