日本の歴史

蝦夷地から北海道までの歴史をわかりやすく解説〜北の大地に夢を託して〜

北海道の地域設定

こうして北海道を完全に手に入れた新政府。しかしこの頃には再びロシアが南下する動きを見せ始めていたため北海道を急いで開拓するのが急務となりました。1869年には蝦夷地全体に北海道11国を設置。同じ年には北海道の開拓のために開拓使が箱館に置かれることになります。

そして明治15年には北海道に函館県・札幌県・根室県が設置。そして1886年には北海道庁が設置されて遂に北海道が成立したのでした。

士族による北海道の開拓

こうして明治政府からは地域設定をされましたが、いくら線を確定しても北海道を開拓して十分な土地にしなければ話になりません。明治政府は北海道に開拓使を置いて各国から移民を募集。日本中から人をかき集めました。

その中でも特に移民の数が多かったのが東北の諸藩の武士たち。実はこれには理由があって元々東北の諸藩は奥羽越列藩同盟という形で新政府軍にたてついたこともあり、仙台藩が62万石から27万石に減封されたことを皮切りに数々の藩が減封され、さらに逆賊の汚名を着せられてしまいました。

そのため武士たちはリストラを受けてしまったり、さらには大名の領地ごと奪われてしまったこともあり一発逆転を狙うために北海道へと開拓しに行ったのです。

そのため今でも北海道には伊達市などの仙台藩ゆかりの名前が残ったりもしていますが、この伊達市付近を開拓したのが伊達家の分家である亘理伊達家。この家は戊辰戦争で全ての領地を失って蝦夷地への開拓に向かった1人でした。

開拓というものはそんなに生半可なものではありません。本州とは違い道もわからないほど生い茂っている原生林をいちいち伐採していき土地を作り出していかなければならず、さらに東北地方の人たちですら体験したことがないほどの厳しい冬を乗り越えなければならず開拓は困難を極めます。

しかし、伊達家のやその家臣団はへこたれません。伊達家からしたらこの開拓こそがお家再興のチャンス。

武士としての身分を失っても、開拓をやめようとはせずアメリカ人から西洋の技術を取り入れ西洋式の農場を開墾。ここでビートという砂糖の原料となる作物を育てて日本初の製糖工場まで作り上げてしまったのです。

さらに、北海道には北方警備のための屯田兵が置かれ、北海道の各地に入植。亘理伊達家と同じ境遇に置かれていた人たちが北海道にて作物の栽培を開始し、かつては米が全く育たなかった北海道の地を米どころに変える原点を作り出したのでした。

今でこそ北海道は日本の食料庫と呼ばれるほどの作物の一大生産地として知られていますが、その裏には士族たちの度重なる努力があったからなのですね。

北海道開拓とお雇い外国人

札幌の羊ヶ丘に立っているクラーク博士の銅像。実はこの銅像がある理由には開拓使が行おうとした計画があったからなのです。

1870年に開拓使の副官としてのちに第2代内閣総理大臣となる黒田清隆が就任。彼は開拓使10年計画というビッグプロジェクトを打ち立てて開拓使を当時まだ栄えていなかった札幌に移転して1000万円(当時の金額で200億円)の大金をつぎ込んで開拓を推し進めようとしました。

その計画の策定をするためにアメリカからケプロン博士を招待。ケプロンは北海道はアメリカの気候とよく似ていることに注目して北海道の都市開発、西洋式の農業の導入、屯田兵の設置などのいろいろなシステムを採用していきます。

さらに、開拓使はケプロンの助言を聞き入れて北海道に西洋式の農業を学習する施設である北海道農学校を札幌に開校。この学校がのちの北海道大学となるのですが、この時にマサチューセッツ農科大学から招待したのがあの羊ヶ丘の銅像にもなっているクラーク博士だったのです。クラーク博士は2年のほどの来日でしたが、その間にのちの開拓のキーマンとなる人材を輩出していき、その後を継いだウィリアム・ボイラーものちの国連事務次長となる新渡戸稲造や内村鑑三などがここを卒業していきました。

北の大地は魅力いっぱい!

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アイヌ人と日本人との争いや開拓の悲劇など様々な歴史を歩んでいった北海道。しかし、今ではアイヌ人の文化を守る動きが出てきたり、その文化を大切にしていこうという意識が芽生え始めてきています。まだまだ魅力たくさんの北海道。旅行に行く際はアイヌ人のことや北海道の基礎を築いた開拓者に想いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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