東アジアへの貿易の拡充と補給
米墨戦争によって西海岸を手に入れたアメリカは自国で作った物質をアジアなどに輸出するために太平洋の航路を確立してアジアとの貿易を拡充する必要が生まれました。
ちなみにこの時のアメリカの人口は約1400万人、日本は3000万人なのに対して中国は4億人と巨大マーケットだったのです。
しかし、船といっても燃料である石炭がなければ動けません。さらにこの当時は冷蔵庫もなければ保存食もあまり発展しておらず、ビタミンが特に摂取できなくなり脚気や壊血病などの病気にかかる可能性がありました。しかしアメリカの補給基地といえばハワイ諸島ぐらいなもので燃料の補給がままらない危険性が生まれてしまったのです。そのため日本と国交を結び補給を安全に受けれるようにしたかったのでした。
捕鯨のための寄港地の確保
今でこそ漁の是非が問われている捕鯨なんですが、産業革命の頃ではランプの油や潤滑油をマッコウクジラから取れる油で賄っていたため捕鯨が盛んに行われていたのです。
しかし、鯨の生息地は太平洋に集中的に分布していることもあり漁の期間が1年を越すこともしばしばありました。そのため漁を行なっている途中に燃料や食料などを調達する必要が生まれたのです。
ペリーによる黒船来航
米墨戦争で勝利した後日本と国交を結ぶために東インド艦隊を日本に派遣することに決定。元々は別の人がやる予定でしたが、アメリカ大統領のミラード・フィルモアはマシュー・ペリーにその重大な任務を命令し1852年11月24日にアメリカのノーフォークを出発。東海岸からアフリカ大陸とインドを回る壮大な航路で5月4日に上海に到着。補給を行なって手始めに当時薩摩藩に服従していた琉球王国に上陸。無理やり親書を渡して当時領有する国がうやむやとなっていた小笠原諸島を調査。そして1853年7月8日遂にマシューペリー率いる東インド艦隊の4つの蒸気船が浦賀に来航したのです。いわゆる日本を揺るがした黒船来航でした。
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実は日本は知っていた?黒船の来航
よく日本の教科書には突如として現れた蒸気船にあたふたしたと書かれていますが、実際には幕府は黒船が来航するということを知っていたというのです。
実は当時の日本には鎖国はしていてもオランダとはある程度の交流をしており、オランダ風説書という当時のヨーロッパ情勢がわかる本をもらっていました。
ペリーが来航する一年前オランダの商館長は幕府に対して「アメリカという国が日本と通商を結ぶために艦隊を派遣しました」という内容の手紙を提出。さらにその中にはアメリカの司令官がペリーになったということや、来航する予定の4つの蒸気船の名前をきっちりと書かれていたのです。
これを受けて当時の老中のトップの阿部正弘は譜代大名に対して意見を求めましたが、「オランダ人は信用ならない」というからこの案をガン無視。さらに琉球王国へペリーが来航したことを薩摩藩が幕府に報告しても動かなかったのでした。
それでペリーの黒船来航に驚いたのですから情けないといえば情けないですね。
ペリーと日本の交渉
By ウィルヘルム・ハイネ – uk:Файл:Perry_03.jpg, パブリック・ドメイン, Link
こうしてアメリカは日本に向かって出発しましたが、そこが日本はてんやわんや。浦賀にペリーがやってくると一気に幕府は対応に追われることとなりました。
1回目の浦賀来航
こうして浦賀に来航したペリー。幕府は浦賀奉行の与力である中島三郎助を派遣してペリーから親書を貰おうとしましたが、与力の地位が低すぎたこともありペリーは拒否。「大統領の国書を渡すにふさわしい人を連れてこなかったら江戸湾に侵入して将軍に直接渡す」と脅しもかけて仕方なく阿部正弘は浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘通をペリーのもとに派遣して国書をもらいに行きました。しかし、この当時将軍である徳川家慶が危篤だったため幕府側は一年間の猶予を与えるように促しました。ペリー側からしてもここで譲歩しなければ日本側が完全に拒否することもあり得るため仕方なく一年後に再び来航することを約束して江戸湾に侵入して脅しをかけた上で浦賀から離れました。