日本の歴史昭和

戦争のために国家の力を結集させた「国家総動員法」とは?その後の日本までわかりやすく解説

マスコミの統制

政府の国家総動員の姿勢はマスコミにも及びました。1938年4月の国家総動員法公布以後、新聞など出版物に掲載する内容を勅令で制限・禁止することができるようになります。

1940年12月には政府は内閣情報局を設置。新聞・雑誌・出版・放送・映画・演劇・レコードなどを検閲し、取り締まりを強化します。

たとえば、石川達三の『生きてゐる兵隊』は南京攻略に向かう日本軍の心理状態や様子を描いた小説ですが、政府は「安寧秩序を紊(みだ)す」として発売禁止処分としました。

また、中国人捕虜の処刑を撮影した写真などは日本にとって不利なものとなるため、検閲したうえで掲載不許可にします。このため、日本国内で報道される内容は戦意を高揚させるものや、日本にとって有利な内容のものに限られました。

軍部主導の体制に異論を唱えた人々

軍や政府による国家総動員体制は強い強制力を持ち、逆らう人々を処罰していったため声をあげて反対することは困難な状況でした。それでも、軍部主導の路線に異議を唱えた人々がいます。

石橋湛山は満州事変や二・二六事件を批判し、軍は政治関与を慎み軍人勅諭に従うべきだと主張しました。石橋は竹やりで本土決戦を戦っても勝ち目はないと公言します。

民政党の議員だった斎藤隆夫は日中戦争に関して政府の方針を批判しました。そのため、1940年に衆議院を除名されてしまいます。しかし、斎藤は1942年の翼賛選挙で非推薦ながら当選を果たしました。

とはいっても、これらの人々はごく少数の例外です。大多数の国民は国家総動員の名のもとに軍や政府の方針に従うしかありませんでした。

議会制民主主義には軍や政治権力の暴走を抑える力がある

image by PIXTA / 24169258

国家総動員法は、日本の持つすべての力を戦争に動員するための法律でした。法案成立後、政府は議会での審議を経ずに素早く命令を実行できるようになります。しかし、国民の代表である議会が政府の行動をチェックすることができる議会制民主主義が国家総動員法で力を失ったとき、軍や政府を止める力はどこにもなかったのです。

1 2 3
Share: