国家総動員法の内容とは
国家総動員法は多くの内容を含む法律でした。第一に、政府は議会の承認なしに勅令をもって戦争に必要な人員や物資を動員することが出来るようになります。次に、国民に対し総動員体制に服する義務や戦争のための徴用に応じるよう定められました。
戦争に必要な物資の生産・移動は政府が管理するようになります。産業組合や労働組合も戦争に協力する組織とされました。国家総動員法は、総動員の範囲を示しただけなので、具体的な内容は勅令によって定められました。
国家総動員法の成立により政府は勅令・法律で国の経済や国民生活の全てを統制する権利を得たと言っても良いでしょう。国家総動員法は追加・修正を重ね、日本が太平洋戦争に敗北するまで国民生活を統制する根拠となっていきます。
政府が実施した統制
国家総動員法に基づき制定された代表的な勅令に国民徴用令があります。1939年7月に平沼騏一郎内閣が制定した勅令で、16歳以上45歳未満の男性と16歳以上25歳未満の女性を軍の仕事に動員できるとするものでした。
太平洋戦争が劣勢になり、日本本土での決戦が意識されるようになると、国民徴用令や国民勤労報国協力令、女子挺身勤労令などが国民勤労動員令に統合されます。
これにより、文化系の大学や高等専門学校の閉鎖、病人までも動員対象とされるなど、本土決戦に向けてなりふり構わぬ総動員体制へと移行しました。また、1939年10月に阿部信行内閣は価格等統制令を公布。価格や運送費、加工費などの値上げを禁じ公定価格制を実施しました。これらは帝国議会の審議を経たものではなく、すべて勅令によってなされます。
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戦争に向けた新体制づくり
総力戦体制を作る動きは政治・経済・言論などあらゆる分野に及びました。政治面では既成政党が解党し、一国一党を目指した翼賛政治体制の確立。労働組合は戦争に協力するための組織である大日本産業報国会へと再編されます。さらに、国民生活やマスコミも統制の対象となりました。
大政翼賛会の結成と翼賛政治体制
日中戦争が行き詰まる中、1939年から1940年にかけて首相経験者の近衛文麿を中心に新しい政治体制を目指す新体制運動が起きました。近衛が目指したのはドイツのナチ党やイタリアのファシスト党のような一国一党体制です。
1940年7月、第二次近衛内閣が発足すると、近衛首相を総裁とする大政翼賛会を設立しました。政友会や民政党の二大政党をはじめ、非合法の日本共産党を除くすべての既成政党が自発的に解党し大政翼賛会に合流します。
太平洋戦争開戦後の1942年4月の第21回衆議院議員総選挙の時、東条内閣は翼賛政治体制協議会を設立し、大政翼賛会に賛成する立候補者たちを支援させました。その結果、議席の80%以上を翼賛議員同盟など翼賛政治賛成派が占めるようになります。こうして、政治の分野でも総力戦に協力する体制が出来上がりました。
大日本産業報国会の結成と軍需品優先の生産体制
戦争協力という点では労働組合も例外ではありませんでした。戦時体制に労働者を動員するため、1938年に産業報国連盟が発足し、各職場に産業報国会が結成されます。
1940年11月、各産業報国会の全国組織として大日本産業報国会が設立されました。これにより、産業報国連盟は解散し、他の労働組合も解散させられます。大日本産業報国会は中央本部、都道府県組織、警察署などの各支部、各事業所まで網の目のように組織を張り巡らし、労働者を戦争に動員していきました。
また、生産活動が軍需品生産最優先とされたため、繊維製品は1937年、農業生産は1939年を境に減少の一途をたどります。そのため、国民生活に必要な衣料・食料などは日増しに欠乏していきました。
国民生活の統制
物資が乏しくなった日本国内では、経済統制がより強められました。1938年には綿糸やガソリンなどの切符制が実施されます。1939年には鉄製品の回収がはじまりました。また、ガソリンが極端に不足したため、木炭自動車が登場したのもこのころです。
1940年に入ると、ぜいたく品の販売を制限する奢侈品等製造販売制限規則が公布され、戦時色がいやがおうにも強まりました。ミッドウェー開戦直前の1942年5月には寺院の仏具や鐘なども強制的に回収されていきます。
生活に必要なありとあらゆる物資が不足しましたが、政府は「ぜいたくは敵だ」として国民に節約させることで不足を乗り切ろうとしました。敗色濃厚となった1943年以降は、主食であるコメの生産もままならず、さつまいもなどが代用品として生産されます。