平安時代日本の歴史

平氏の栄光と没落を描き琵琶法師が弾き語った『平家物語』をわかりやすく解説

源義経、鵯越(ひよどりごえ)を馳せ降り一の谷の戦いで平氏を破る

頼朝と義仲が争っている間、都落ちをした平氏は勢力を回復。福原京があった場所まで進出していました。平氏は瀬戸内海を中心に九州・四国・中国地方で勢力を拡大し、京の都に攻め上らんとします。

後白河法皇は頼朝に、平氏追討を命じました。頼朝は範頼と義経に一の谷に陣を張る平氏軍を攻撃するよう命じます。範頼軍は東から平氏軍を攻撃、義経軍は背後から平氏軍を突く予定でした。

『平家物語』では、武蔵坊弁慶が地元の猟師を義経の前に連れてきます。義経は猟師に平氏軍の背後を突く道を尋ねると、猟師は鹿が通る道はあるが、軍勢は無理だろうと答えました。すると義経は「鹿が下りられるなら、馬も大丈夫なはずだ」といって精鋭70騎とともに断崖絶壁を駆け下ります。

突如、断崖絶壁を駆け下りた義経軍を見て驚いた平氏軍は混乱状態となりました。前後を挟撃され、しかも混乱した平氏は一の谷から屋島に敗走します。

『平家物語』の名場面、那須与一が扇の的を射落とした屋島の戦い

一の谷の戦い後、義経は京都周辺でおきた乱の鎮圧のため京都にとどまります。そのため、山陽道(中国地方の瀬戸内海側)の司令官は源範頼となりました。

範頼軍は陸戦では平氏に勝利するものの、平氏の海上からの反撃に苦しみます。補給路を平氏軍に襲われるようになった範頼軍は食糧不足に苦しみました。

範頼軍の苦戦を聞いた義経は後白河法皇の許可を得て京都を出発。1185年2月18日深夜、義経軍は暴風雨の中、危険を冒して四国にわたります。平氏が各地に兵力を分散し、本陣のある屋島が手薄であることを知った義経はすぐさま屋島を奇襲しました。

平氏軍はとっさにことに驚き海上に逃れます。この時、平氏軍から美女が乗った小舟が少し陸に近づき、竿の先の的を射てみよと源氏軍を挑発しました。義経は、那須与一に的を射るよう命じます。

与一は仕損じたら腹を切る覚悟で矢を放ち、見事、扇を射抜きました。この後、義経に援軍が来たため平氏軍は屋島の奪還をあきらめて撤退します。

安徳天皇が入水し、平家が滅んだ壇ノ浦の戦い

瀬戸内海の拠点を相次いで失った平氏は、関門海峡にある彦島に兵力を集中させました。一方源氏軍は、範頼軍に九州を攻めさせ平氏の援軍を遮断します。

加えて義経は摂津の渡辺水軍、伊予の河野水軍、紀伊の熊野水軍を味方につけ、平氏に対抗できる水軍を編成。平氏の拠点である彦島とその周辺にある壇ノ浦に進軍しました。

壇ノ浦の戦いは、当初平氏の優位に推移します。ところが、途中から潮流が変化し源氏軍の背中を押すように流れが変わりました。勢いにのった源氏軍は平氏軍を圧倒。平氏の名だたる武者たちを次々と討ち取っていきました。

源氏軍が安徳天皇が乗っている船に迫ると、清盛の妻で安徳天皇の祖母にあたる二位尼が安徳天皇を抱えて海に飛び込みます。安徳天皇のそばに仕えていた女官たちの多くも後を追って海に身を投げました。ここに、栄華を極めた平氏も滅亡してしまいます。

諸行無常・盛者必衰の物語は日本人の心に響き、後世まで語り継がれた

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『平家物語』はのテーマである諸行無常・盛者必衰は、日本人の心に深く感銘を与え、後世まで語り継がれました。自然災害が多く、いつ予期せぬ災害に見舞われるかもしれない日本人にとって「諸行無常」「盛者必衰」は実感しやすいテーマなのかもしれませんね。

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