平安時代日本の歴史

平氏の栄光と没落を描き琵琶法師が弾き語った『平家物語』をわかりやすく解説

保元の乱、平治の乱に勝利した平清盛の急成長

1156年、鳥羽上皇が死去すると、次の権力をだれが握るかで争いとなります。対立していたのは崇徳上皇と後白河天皇でした。それぞれに味方する武士たちが京都をめぐって争った戦いを保元の乱といいます。

天皇家の争いに摂関家の後継者争いも加わって戦いは大規模なものとなりました。清盛は後白河天皇側に立って活躍し、天皇側を勝利に導きます

。保元の乱の三年後、後白河上皇(天皇を退位し、院政を行っていた)の側近たち同士での内輪もめが起きました。これが、平治の乱です。清盛は藤原通憲(信西入道)と手を組み反対派を一掃します。

信西入道が敵方の襲撃で殺されたため、平治の乱後は清盛の影響力が飛躍的に高まりました。特に源義朝を滅ぼし、義朝の子の頼朝を伊豆に流すなど源氏勢力に大打撃を与えます。

絶頂を迎える平清盛と後白河法皇の対立

日宋貿易などで蓄えた経済的実力を背景に、平清盛は中央政界で出世をつづけました。清盛は後白河法皇の子で、のちに即位した高倉天皇に娘を嫁がせ天皇家の外戚(母方の親戚)として勢力を盤石なものとしていきます。

清盛の勢力拡大に後白河法皇や法皇の側近たちが不満を持つようになりました。1177年、法皇の側近たちは鹿ケ谷の山荘で平氏打倒の計画を練ります。計画は密告により事前に発覚しましたが、清盛は激怒しました。

首謀者のうち西光は処刑、藤原成親は備前国に俊寛らは鬼界ケ島に流罪となります。清盛と後白河法皇の対立が決定的となったきっかけは後継者の平重盛の死でした。

重盛が死去すると、後白河法皇は重盛に与えられていた越前国を清盛の無断で没収します。法皇の平氏軽視の姿勢に怒った清盛は軍勢をひきいて上洛。後白河法皇を幽閉してしまいました。

平家の没落と『平家物語』に描かれた名場面

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軍記物語である『平家物語』にはいくつもの名場面があります。奈良の諸寺院を焼き払った清盛が熱病で死ぬ様子や平家の都落ちの姿は、因果応報・諸行無常という『平家物語』全体のテーマにふさわしい場面でしょう。『平家物語』は源氏の若武者、源義経の登場により一気に加速。壇ノ浦での平氏一門の滅亡まで次々と戦いが起こりました。

以仁王の令旨と諸国の反平氏勢力の蜂起

後白河法皇の幽閉により、独裁政治を行った平清盛に対し反感を募らせた人物がいました。後白河法皇の第3皇子以仁王です。以仁王は源頼政とともに挙兵。同時に、以仁王は全国各地に「平氏を討て」という令旨(命令書)を出します。以仁王の挙兵に奈良の興福寺や近江の園城寺(三井寺)も同調しました。

以仁王の挙兵そのものは密告などがあったためうまいかず、清盛によって鎮圧されました。反平氏の動きに対応するため、清盛は防衛に不利な京都から平氏勢力圏の福原(現在の神戸)に都を移します。

しかし、高倉上皇などが反対したこともあり都は短期間で京都に戻されました。以後も、以仁王の令旨は以仁王の死後も反平氏勢力挙兵の口実に使われます。伊豆の源頼朝、信濃の源義仲などが相次いで挙兵。畿内の有力寺院とともに平氏を圧迫し始めました。

南都焼打と清盛の死

1180年、関東の源頼朝を討伐するため清盛は平維盛を東に差し向けました。源平両軍は富士川で対陣。しかし、平氏側がほとんど戦うことなく撤退したため、頼朝の勝利に終わります。

富士川での敗報を聞いた畿内の諸寺院は反平氏活動を活発化。この動きに対し、清盛は近江の園城寺を焼打ちし近江を平定しました。さらに、興福寺など南都の諸寺院を屈服させるため平重衡に4万の兵を預けて派遣します。

興福寺などの南都寺院側は平氏に対して抵抗の構えを見せました。戦いのさなか、平氏軍が民家に火を放つと炎は瞬く間に広がり、奈良全体を焼き尽くします。この火災で興福寺や東大寺大仏殿が全焼。戦いには勝ったものの、清盛は「仏敵」の汚名を受けてしまいます。

南都焼打からほどなくして、清盛は熱病にかかりました。『平家物語』では清盛の様子を「水をだに喉へも入れたまはず。身の内の熱き事、火を焚くが如し」と描写し、清盛はただ「あだあだ(熱い熱い)」と繰り返すだけだったといいます。清盛は「頼朝の首を墓前に備えよ」と遺言してこの世を去りました。

源義仲の入京と平氏の都落ち

清盛の死後、平氏と反平氏勢力の戦いはいったん落ち着きます。その理由は、養和の大飢饉が起きたからでした。事態が動いたのは1183年5月のこと。平氏に攻め込まれた源義仲が倶利伽羅峠で平氏軍と戦い勝利します。

勢いにのった義仲軍は京に向けて進撃を開始。平氏は安徳天皇を伴い、三種の神器をもって京都から西国へと落ち延びました。

上洛した義仲の軍は京都で粗暴な行為を行ったため、京都に残っていた後白河法皇と対立。法皇は関東の頼朝に源義仲討伐の命令を下しました。頼朝は弟の範頼義経に兵を預け西進させます。

1184年1月、範頼・義経軍は宇治川の戦いで義仲を打ち破りました。これにより、日本は西国を支配する平氏と関東から近畿まで勢力下に収めた源頼朝、東北で自立していた奥州藤原氏の藤原秀衡の3勢力の分立状態となります。

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