アメリカ軍の沖縄上陸と戦火の拡大
1945年3月14日、アメリカ軍は空母16隻を中心とする大機動部隊で九州南部や沖縄などを空爆。3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島に上陸しました。慶良間諸島を制圧したアメリカ軍は4月1日に沖縄本島の中西部に上陸し、読谷や嘉手納にあった飛行場を制圧します。
守備側の第32軍は沖縄本島南部に主力を集め持久戦をしかけました。4月8日と12日、第32軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪還するために夜襲を仕掛けますが失敗し、大損害を出してしまいます。以後、第32軍は防御に徹するようになりました。
日本軍は地下に張り巡らされた陣地を中心に徹底抗戦したため、アメリカ軍は出血を強いられます。アメリカ軍はバーナーで陣地を焼き払う戦法で対抗しました。アメリカ軍は多大な犠牲を払いながらも、日本軍が守る首里防衛線を突破。第32軍司令部は糸満市の摩文仁に撤退し、なおも抵抗を続けます。
坊の沖海戦で戦艦大和が轟沈
沖縄で日米両軍が死闘を繰り広げているさなか、戦艦大和を旗艦とする第一遊撃部隊が沖縄方面に出撃しました。この海戦までに日本海軍は主力の航空母艦のほとんどを失い、戦艦大和以下少数の艦艇が生き残るのみでした。
日本軍は制空権を失い、空母もない状態だったため、大和以下の艦艇が沖縄にたどり着けるかという疑問の声が上がりましたが反対の声を押しきって作戦は実行に移されます。
作戦の目的は大和を沖縄で座礁させ、浮き砲台としてアメリカ軍と戦うことでした。大和以下の艦艇が鹿児島沖に差し掛かると、それを発見したアメリカ軍の航空隊から集中砲火を浴びます。
1945年4月7日、大和は鹿児島県沖の九州南方海域で轟沈。これにより、日本海軍は水上艦艇のほぼすべてを喪失します。
沖縄戦に動員された多くの民間人たち
沖縄戦には軍人だけではなく、多くの民間人も動員されました。沖縄県の住民は飛行場建設や陣地構築などに従事しました。また、沖縄にあった沖縄師範学校や中学校・工業・商業などの11の学校に在籍していた男子学生は鉄血勤皇隊として組織され、通信隊や砲兵隊に配属されます。彼らの多くが戦闘により負傷・戦死しました。
動員されたのは男子学生ばかりではありません。沖縄師範学校女子部や県立第一高等女学校の教師・生徒も看護兵として動員されます。彼女たちはひめゆり学徒隊と呼ばれました。
沖縄戦の敗色が濃厚となった6月18日から19日にかけて、現在「ひめゆりの塔」がある場所の付近にあった第3外科壕では学生37名、教師5名が犠牲になります。沖縄戦では軍人・民間人あわせて188,136人の犠牲者をだしました。
沖縄戦の敗北とその後
日本軍は沖縄での防衛線に敗北し、アメリカは日本本土攻撃の拠点を得ました。しかし、沖縄戦は日本軍にとってもアメリカ軍にとって多くの犠牲を出した戦いとなります。この結果、アメリカ軍の中で日本本土攻撃を慎重に行うべきとの考え方が強まりました。戦後、沖縄はアメリカの占領下に置かれます。沖縄の日本返還後も、沖縄には多くの在日米軍基地が残されました。
沖縄戦は日米両軍に大きな被害をもたらし、その後の戦局に影響を与えた
沖縄戦においてアメリカ軍は日本軍の徹底した陣地防衛戦術と特攻戦法に苦しめられました。アメリカ軍の事前想定よりもはるかに多くの犠牲を出したことで、アメリカ軍内部で日本本土攻撃への慎重な意見が強まります。
他方、沖縄戦の敗北は日本側にも大きな影響を与えます。日本側は沖縄戦でアメリカ軍に大打撃を与え、講和に持ち込もうという考えがありました。しかし、沖縄戦での大きすぎる犠牲と、その犠牲を払ってでも戦いを継続させたアメリカ軍の姿勢の前に、一撃を加えて講和に持ち込むという考え方が非現実的であることを悟らざるを得なくなります。
のちに昭和天皇は「私は之(沖縄戦)が最后の決戦で、これに敗れた、無条件降伏」と考えていたと昭和天皇独白録で述べました。
終戦後、沖縄はアメリカの占領統治下に置かれた
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。8月9日には長崎にも原子爆弾が投下されます。長崎への原爆投下の前日、中立を保っていたソ連軍が突如として日ソ中立条約を破棄。日本に対し攻撃を仕掛けてきました。
新型爆弾による大損害と、講和仲介の最後の希望となっていたソ連の対日参戦により日本は戦争継続を断念。8月15日にポツダム宣言受諾と降伏を、天皇のラジオ放送(玉音放送)で国民に伝えました。
沖縄はアメリカ軍の占領下に置かれ、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が独立を回復した時も、沖縄はアメリカの施政権下に置かれたままとなります。
1969年の日米首脳会談において佐藤首相とニクソン大統領が会談。1972年に核抜き・本土並みの沖縄返還が決定しました。1971年、日米は沖縄返還協定を締結。1972年5月15日に沖縄は日本に復帰します。
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