中国の歴史

「春眠暁を覚えず」の意味ってご存知?~現代にも通ずる古代中国故事の世界10選~

♯6ネガティブな発想をポジティブに変えるための言葉

【能わざるに非ず、為さざるなり】

(できないのではなく、しようとしないからだ。)

 

これは戦国時代の儒者であり思想家でもあった孟子(もうし)の言葉を集めた「梁惠王章句上」という書物の中に収められています。魏の恵王(けいおう)は国の在り方や政治について、頻繁に孟子の助言を求めていたそうですね。

当時の魏は周囲を強国に囲まれて、度重なる戦乱のために国が疲弊している状態でした。恵王自身も懸命に徳をもって国を支えようとしますが、やはりなかなか改善しない状況に疑心暗鬼になっていきました。そんな時に孟子のこの言葉を授かったのです。以下は全文。

 

「然らば即ち一羽の挙らざるは力を用いざるがためなり。輿薪の見えざるは明を用いざるがためなり。百姓の保んぜらるときは恩を用いざるがためなり。ゆえに王の王たらざるは為さざるなり。能わざるに非ず、為さざるなり。」

(鳥の軽い羽毛が持ち上がらないのは力を出そうとしないから。暗闇で積んである薪が見えないのは灯を用いないから。民心が安定しないのは徳や恩を施していないから。だから王が王らしくなれないのは、できないからではなく、なろうとしないからなのです。)

♯7自分がされてイヤなことを他人にしないこと

【己の欲せざる所は人に施すこと勿れ】

(自分が望まないことや好ましく思っていないことを、他人に押し付けたりしてはならない。)

 

この言葉は、春秋時代の偉大な儒者である孔子(こうし)と、その弟子だった子貢(しこう)との会話の中にあったとされ、「論語」の中にも収められています。以下はその全文。

 

「子貢問うて曰く、一言にして以て終身之を行うべき者あるか。子曰く、其恕か、己の欲せざる所は人に施すことなかれ。」

(弟子の子貢が、師の孔子に問うた。「一生のうち、ただ一言で行為を律すべき言葉がございましょうか?」すると孔子はこう答えた。「そうだなあ、自分がされたくないことを他人に対してもしない。ということだろうか。」)

 

また「論語」の中には、同じく孔門十哲といわれた弟子のひとり仲弓(ちゅうきゅう)との会話の中にも同じ内容の言葉が出てきます。

 

「仲弓、仁を問う。子曰く、門を出でては大賓を見るが如くし、民を使うには大祭を承くるが如くす。己の欲せざるところは人に施すなかれ。邦にありても怨みなく、家にありても怨みなし。仲弓曰く、擁不敏なりといえども請う其語を事とせん。」

(ある時、弟子の仲弓が人として正しい道を問うた。

孔子が答えるには、「自分の家の門から外に出て人に会えば、あたかも貴賓客を見るように敬々しく接し、民衆を使うには大きな祭りを行うほどの気持ちで。そして肝心なことは、自分が望まないことを人にも押し付けないということだ。それだけのことができたら、国家に仕えても家にいても安心して暮らせることだろう。」

すると仲弓はこう答えた。「自分は至らない者だが、師の言葉を大切にして生きていきたいと思います。」と。)

 

二人の弟子に同じ言葉を与えた孔子自身も、常々大切な言葉として胸に秘めていたことが伺えますね。「自分がされてイヤなことは、他人にもしないこと。」幼稚園などで習う最初の【故事】なのかも知れません。

♯8弱いものだと侮ると痛い目を見るという例え

【怒髪、天を衝く】

(髪の毛が逆立つほど怒りが凄まじいようす)

 

前漢時代の歴史家だった司馬遷がまとめた有名な歴史書「史記」。その中に収められている「藺相如伝(りんそうじょでん)」に出てくる故事です。

戦国時代に大国として覇権を握ったは、隣国の弱小国だったに話を持ち掛けました。「和氏の壁(かしのへき)という美しい玉を譲ってくれたら、その代わり城を15ほど進呈しよう」と。しかし狡猾な秦が城を譲るなどあり得ないこと。このまま玉を奪われてしまうのは口惜しいと皆は歯噛みします。

そこで声を挙げたのが重臣の藺相如でした。王に策を打ち明け、彼はたった一人で「和氏の壁」を携えて秦王の元へ乗り込んだのです。玉を受け取った秦王は、周囲の者に見せびらかすばかりでいっこうに城の話を切り出しません。

「やはりそういうことか。」と口実をつけて再び玉を手にした藺相如は、形相凄まじく、怒りのあまりに髪が逆立って冠を衝くばかり。そしてこう叫びました。

「城を渡すという話はやはりウソだったのだな!このままだまされるくらいなら、いっそ自分もろとも玉を粉々にしてくれる!」と。

藺相如のあまりの気迫に慌てた秦王は、藺相如を殺しても、城を渡さなくても、いずれにしても趙の恨みを買うだけだと察し、ついに玉をあきらめたそうです。

 

「相如、因りて壁を持ち、却立して柱に寄り、怒髪上りて冠を衝く。」

 

「史記」にはこう記されていますが、「怒髪冠を衝く」よりも「怒髪天を衝いた」と表現するほうがより迫力があるため、後年になってデフォルメされたものと思われます。

戦いに関する故事

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古代中国はまさに戦乱の時代でもありました。群雄割拠の時代も長く、王朝が変わるごとに大きな戦いが起こり、そしてその中から多くの故事も生み出されていったのです。

♯9今も昔も、実力者は二人もいらない

【両雄並び立たず】

(二人の英雄がいれば、必ず争って、どちらかが倒れるものだ。)

 

中国の歴史を見ても、もちろん日本の歴史を振り返っても、天下を手にする者は一人だけ。実力者が天下を折半して支配するなんて聞いたことがありません。

この言葉が表しているのもまさしくそれで、先ほどご紹介した司馬遷「史記」に収められている「酈生伝(れきせいでん)」の中に登場しますね。両雄とは漢の劉邦(りゅうほう)楚の項羽(こうう)のことで、楚漢戦争の最後は劉邦の勝利で幕を閉じます。全文は以下の通り。

 

「且つ両雄は共に立たず。楚漢久しく相持して決せず、百姓騒動し、海内揺蕩し、農夫は鋤を捨て、工女は機を下り、天下の心未だ定まるところ非ざるなり。」

(天下の両雄は必ずどちらかが倒れるもの。長く楚と漢の決着がつかないために、民衆が騒動を起こし、国内は動揺し、農夫は耕作をやめてしまい、機織り女は仕事をやめてしまった。だから天下が定まっていないのだ。)

♯10数の論理には誰も敵わない

【衆寡敵せず】

(少人数では大人数に対して敵わない。)

 

「多勢に無勢」とも同じ意味になりますが、数の論理からいって少勢は多勢に対しても勝ち目がないということです。でも面白いもので「窮鼠猫を噛む」だとか、「小よく大を制す」といった対義の意味をなす故事もありますから、一概には言えないのでしょうか。

先ほどもご紹介した孟子「梁恵王上」にその出典があり、あるとき恵王が孟子に対して、「孟子の出身地だった騶(すう)が大国の楚と戦ったらどうなるか?」と聞きました。全文は以下の通り。

 

「曰く、楚人勝たんと。曰く、然らば即ち小は固より以て大に敵すべからず。寡は固より以て衆に敵すべからず。弱は固より以て橿に敵すべからず。」

(楚が勝つでしょう。小は大に敵いませんし、寡は衆に敵いません。また弱は強に敵わないからです。)

 

またもう一つの出典としては、西晋に仕えた官僚だった陳寿が著した「三国志」に収められている「魏志 巻11張範伝」に出てきますね。

後漢末期に反乱を起こした董卓を討伐しようと、名将といわれた張承が兵を挙げました。しかし持ち駒の兵はあまりに少なく頼りない。そこに弟の張昭がアドバイスを与えます。

 

「今、卓を誅せんと欲するも、衆寡敵せず。かつ一朝の謀を起こして阡陌の民を戦わしむ。士もとより撫せず、兵練習せず、以て功を成すこと難し。」

(今、董卓を討伐しようとしても多数と少数とでは敵いません。しかも突然思い立って農民の兵を徴集して戦わせようとしている。兵が言うことを聞かず、しかも訓練すらまともにしていない有様では、勝利することなどできないでしょう。)

 

張承はこのアドバイスに従い兵を引き上げました。そしてこの後、魏の曹操の配下となるのです。

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明石則実