日本の歴史明治

5分でわかる「日露戦争」背景・経過・戦争後の影響などわかりやすく解説

日露戦争の戦費調達

日露戦争をするにあたって、政府が頭を悩ませたのが巨額の戦費をどうやって調達するかでした。

政府は臨時軍事費の多くを政府の借金である公債でまかないます。必要金額の13億円のうち6億円は国内の公債募集(内債)で集めることができました。残りの公債は外国で募集(外債)します。

外債募集を担ったのが日本銀行副総裁だった高橋是清でした。高橋はロンドンで銀行家のジェイコブ=シフに多額の外債を引き受けてもらうことに成功します。イギリスがロンドンでの公債募集に協力的だった背景には、日本を財政的に支援しロシアのアジア進出を抑制しようという思惑があったからでした。

また、政府は戦時特別税を課し、1億3000万円余の戦費を捻出します。日本政府は公債と増税により巨額の戦費を用意しました。

旅順要塞攻防戦と奉天会戦

1904年、日本軍が旅順港外のロシア艦隊を攻撃したことから日露戦争が始まりました。日本軍はロシアが作った旅順要塞の攻略を目指します。旅順にいたロシア艦隊を壊滅させるのが旅順攻撃の目的でした。

ところが、旅順はロシアによって徹底的に防備が固められていて、なかなか落とすことができません。旅順攻略を担当した乃木希典は1年間かけ、ようやっと旅順要塞を攻略することができました。

その後、陸軍の主力は満州の中心都市である奉天に進撃。ロシア軍主力と正面からぶつかる奉天会戦をおこないます。両軍主力がぶつかり合う激しい戦いでしたが、ロシア軍司令官クロパトキンはロシア軍に後退を指示。日本軍は辛くもロシア軍に勝利することができました。

日本海海戦の勝利

奉天会戦に敗れたロシアでしたが、戦いの痛手を徐々に回復していきます。回復できた理由はロシアが敷設したシベリア鉄道にありました。ロシアは奉天会戦後もシベリア鉄道を使って戦力を増強し続けます。ロシアの抗戦意欲をそぐためには、決定的な勝利が必要でした。

1905年5月、ロシアはヨーロッパにいたバルチック艦隊を日本周辺に向かわせ、日本近海の制海権を取ろうとします。日本の連合艦隊はロシア艦隊を沖ノ島付近の対馬沖で捕捉しました。この日本海海戦で日本艦隊はロシア艦隊に大損害を与えて勝利します。

制海権を奪われたロシアは不利な状況となりました。1905年1月に血の日曜日事件が起きて国内が混乱していたロシアにとって、日本海海戦の敗北は大打撃となったのです。

 

日露戦争の終結とその後の影響

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日露戦争は日本にとって大きな勝利でした。ロシアに勝利することで日本は満州に進出できるようになります。その一方、ロシアとの講和条約であるポーツマス条約で賠償金を得られなかったことは重い負担に耐えた国民を激怒させ日比谷焼打ち事件に繋がりました。アジアの一国である日本が列強の一角であるロシアに勝利したことはアジアの民族運動に大きな影響を与えます。

アメリカの仲介により、ロシアとポーツマス条約を締結

日本海海戦で勝利した日本は、戦争の早期終結のためアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに講和の仲介を依頼します。日本とロシアの代表はアメリカのポーツマスで講和交渉を始めました。

日本側の全権は外務大臣の小村寿太郎。ロシア側の全権はウィッテです。日本は樺太の割譲や賠償金などを要求しますが、老獪なウィッテはアメリカのメディアを上手に利用することでロシア側に有利な世論を作り出しました。

日本は勝利を重ねていたといっても、国力は限界に近づいています。やむなく、日本はウィッテに妥協しポーツマス条約が締結されました。

条約では日本が韓国を保護国化することや日本が旅順や大連の租借権(土地を借りる権利)、南満州鉄道の利権など得ることなどが定められます。しかし、賠償金をロシアからとることはできませんでした。

賠償金をとれなかったことに日本国内は大反発し、日比谷焼打ち事件がおきた

ポーツマス条約に調印し、アメリカから帰国した小村寿太郎を待っていたのは国民の激しい怒りでした。国民は戦争の犠牲や重税に耐えてきたという思いがあっただけに、ロシアから賠償金を得られないポーツマス条約を結んだ小村や政府に対し、激しい怒りをぶつけたのです。

1905年9月5日、ポーツマス条約反対の集会が東京・日比谷公園で開かれました。公園に集まった集会参加者は警察の公園封鎖などに反発し暴徒化。内務大臣官邸や新聞社、警察署など市内13か所を襲撃し焼打ちしました。

この事件を日比谷焼打ち事件といいます。無政府状態と化した東京に戒厳令が布告され、近衛師団が暴動の鎮圧にあたりました。日比谷焼打ち事件での死者は17名、検挙者は2,000名以上にのぼります。

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