室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる松姫の生涯!信玄の娘・信忠の婚約者だった彼女をわかりやすく解説

2-2. 織田軍の総大将は、信忠

長篠(ながしの)の戦いで武田を破ってからというもの、武田氏を制圧することに本気を出してきた信長は、天正101582)年、武田勝頼にとどめを刺すため、甲州征伐に乗り出しました。しかも、その総大将に任命されたのは、信忠だったのです。

かつての婚約者に家を攻められる形となった松姫。ショックは大きかったことでしょう。

そして信忠の率いる織田の軍勢は、高遠城へと迫って来たのです。

この時、兄・盛信は死を覚悟しましたが、妹たちを逃がすことに決めていました。そして、松姫に実の娘・督姫(とくひめ)や勝頼の娘・貞姫(さだひめ)、重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の養女・香具姫(かぐひめ)らを託したのです。

こうして松姫は信忠の軍勢から逃れ、勝頼の本拠地である新府城(しんぷじょう/山梨県韮崎市)を目指すことになったのでした。追っ手が元婚約者の手の者だとは、何とも辛い心境だったに違いありません。

2-3. 逃げて逃げて、八王子付近まで落ち延びる

松姫たちは甲斐に入りましたが、近郊の寺に身を寄せました。幼い姫たちを危険にさらすわけにはいかなかったのでしょう。

一方、兄・盛信は高遠城で壮烈な自刃を遂げました。信忠の降伏勧告を断固拒否したと言われており、戦況の悪化と共に多くの家臣や一族が勝頼を見捨てて逃げ出す中、彼は最後まで忠節を尽くしたのです。同じ頃、もうひとりの母を同じくする兄・葛山信貞も自害を遂げています。

信忠は家臣の命などを保証したと言いますが、松姫がここにいるかもしれないという思いがあったのかもしれません。

そして、武田の惣領である勝頼もまた、追い詰められて自害を遂げ、戦国大名としての武田氏は滅亡しました。最後まで付き従った者はごくわずかで、戦国最強の武田氏の滅び方としては、実にしのびない結末でした。

松姫たちはさらに逃げ、峠を越えて武蔵国(現在の八王子市付近)に入ります。幼い姫たちを連れての逃避行は想像を絶する厳しさだったでしょうが、松姫はなんとか生き延びたのでした。

3. 信忠からの迎えが!?しかしまたしても悲劇が

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八王子に落ち延びた松姫のもとに、なんと、信忠からの使者がやって来ました。彼女を迎えに来たというのです。もちろん彼女は信忠のもとへと急ぎますが、そこでまたしても悲劇が彼女を襲いました。本能寺の変で、信忠が討死を遂げたという報せが入ったのです。絶望の底に突き落とされた彼女は、立ち直ることができたのでしょうか。松姫のその後をご紹介します。

3-1. やって来た信忠からの迎え

逃避行の末に八王子に辿り着いた松姫たちは、北条氏照(ほうじょううじてる)の保護を受けていたとも言います。姉が北条氏に嫁いでおり(すでに死去)、姻戚関係ということで頼ったとも伝わっていますね。そこで、松姫らは息をひそめて暮らしていました。女性とはいえ、武田の者。苛烈な処罰で知られる信長に見つかればどのような扱いを受けるか、考えるだけでも恐ろしいことでした。

ただその一方で、信忠は松姫の行方を探していたようなのです。高遠城にもおらず、新府城にもいなかったということで、彼は松姫がもしかすると生きているのかもしれないと思っていたのでしょう。すでに側室との間に子供をもうけていた信忠ですが、それは武家の跡取りとして重要なこと。ただ、正室はいまだに迎えていなかったのです。彼の中にも、松姫への思いがあったのかもしれないと推測できますよね。

そして信忠はついに松姫の居場所を探し当て、迎えの使者をよこしたのでした。しかも、彼女を正室として迎えたいという意思を示したのです。

3-2. ついに信忠のもとへ!しかし彼女を襲った悲報

一度も会ったことのないかつての許婚、しかしずっと思い続けていた相手からの迎えの使者とは、松姫にとっては夢かと思うような話だったことでしょう。

そして彼女は、20年以上思い続けた人のもとへと出発しました。あと少しでやっと会えると、心躍らせての道行きだったはずです。

しかし、その途中でまたしても思わぬ報せが彼女に舞い込んできました。

京都で本能寺の変が起き、織田信長・信忠親子が討死を遂げたというものでした。

3-3. 絶望の淵から、信忠を弔う日々へ

何度もすれ違い、20年以上の時を経てやっと会えるというところまで来たというのに、どこまでも運命は松姫に残酷でした。彼女の絶望はいかばかりだったでしょうか。

それでも、松姫は生き続けました。八王子へと戻った彼女は、心源院(しんげんいん)という寺で出家し、信松尼(しんしょうに)と名乗るようになります。「信」の字は、父・信玄のものなのか、それとも、信忠のものなのか…憶測の余地はありますが、なんとも言えない気持ちになりますね。自身の俗名である「松」の字と並んでいるということは、やはり信忠を思ってのことなのかもしれません。

そして、尼となった彼女は、やがて心源院から信松院(しんしょういん)という草庵に移り、討死したすべての武田一族と信忠の菩提を弔う生活に入ったのでした。

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