日本の歴史昭和

戦後の日本の方向を決めたロサンゼルス講和会議と「日米安全保障条約」をわかりやすく解説

日本でもレッドパージ(赤狩り)が起こった

欧米諸国、特にアメリカ合衆国では、レッドパージ(赤狩り)と呼ばれる共産主義者、社会主義者を追放する動きが強まります。

日本では、戦後のGHQの政策によって社会主義政党の日本社会党が政権をとるようになっていました。しかし、東西冷戦が強まったことによって、アメリカ政府は、日本を復活させて西側陣営の防波堤にしようという方向に方針を転換して、GHQも最終的にその方向に変わります。GHQは、1948年に成立した社会主義政党の連立内閣を汚職事件を理由時として退陣させました。同時に、GHQは、政令201号というレッドパージを実施する政令を通告して、公務員のストライキを禁止したり、共産主義者の公職追放をおこなったのです。

GHQは、新たに成立した吉田茂首相に経済安定九原則を示してその実現と協力の行動を迫ります。さらに、GHQの経済顧問になったドッジ氏に経済立て直しの提案をさせました。それをドッジ・ラインと言います。政府の財政政策と税制改革(累進課税の所得税など)を実施させて、当時のハイパーインフレ(急激な物価上昇)を押さえさせたのです。為替レートも1ドル=360円に固定して、GHQは経済復興に関与するようになりました。

決定的なGHQの政策を変えた朝鮮戦争の発生

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1950年に、共産主義国家になった北朝鮮が南朝鮮の韓国に侵略を開始し、朝鮮戦争が始まります。西側諸国が恐れていた事態が起きたのです。アメリカ軍を中心とする国連軍の支援を受けた韓国と、ソ連と中国が支援する北朝鮮が1953年まで戦闘が続けられました。

日本に駐留していたGHQ は、アメリカ軍を中心に朝鮮半島に進軍します。日本では、GHQ の指示により進駐軍に代わって治安維持をおこなう組織として警察予備隊が作られました。その結果、日本はアメリカ軍の補給基地になったのです。

北朝鮮の韓国侵入攻撃によって、西側諸国では、共産主義による侵略が現実のものになり、日本はその防波堤としての存在としての重要性を強く認識されるようになりました。GHQも同様に強く意識するようになります。

日本は軍需特需で戦後初の好景気が訪れる

朝鮮戦争の勃発によって、それまで低迷していた日本経済は、軍需需要によって大きく回復します。軍需物資を生産するための生産設備投資がおこなわれ、戦前の水準以上の生産能力にまで回復するようになったのです。これが後の高度経済成長につながります。

日米安全保障条約の大枠と日米地位協定

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吉田内閣は、西側諸国の考え方が変わってきたことを受けて、アメリカなどの欧米諸国と日本の独立を求めて積極的に協議のための交渉をおこないました。その中で、日本は西側諸国の防波堤となることを強調したものの、一番の問題は日本の再軍備でした。そのために、防衛のための最小限の武力として警察予備隊を置き、防衛のためにはアメリカ軍の駐留を条件として認めさせます。原則的に日本は武力を行使しないことを約束したのです。

日本国内には、西側諸国だけとの交渉を危惧する動きもありました。しかし、吉田首相の日本政府は、経済復興に全力投球するためには西側諸国だけとでも早期に独立を果たすべきとの意思を示したのです。さらに、日本の防衛と共産主義諸国の侵略の防波堤になるために、日米安全保障条約を結び、日本は戦力を持たないことで最終的に西側諸国の協力を得ることに成功しました。

ロサンゼルス講和会議でのロサンゼルス平和条約の調印

1951年に、ロサンゼルス講和会議に参加した西側諸国のうち48ヵ国とロサンゼルス平和条約を締約し、日本は正式に独立国として、自国の政治をおこなえるようになったのです。この会議には、ソ連も参加していましたが、条約には調印しませんでした。日本は、同時に日米安全保障条約にも調印して、独立後にもアメリカ軍が駐留することが決まったのです。

さらに、1952年の条約発効に際しては、日米地位協定が結ばれ、日本はアメリカ軍に対して日本国内のいくつかの場所や施設を無償で提供して使用できることが決まりました。

日米安全保障条約の内容

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日米安全保障条約では、日本は国の防衛(安全保障)をアメリカ軍に依存し、アメリカ軍は日本が攻撃された場合には、日本の防衛をおこなうことになったのです。日本は、これによって経済復興に注力することが可能になりました。また、朝鮮の独立を認めるほか、台湾、南樺太、北方4島を除く千島列島の放棄が含まれていました。

しかし、条約締結後には、独立した日本自身の防衛力強化のために、1954年に自衛隊を創設し、防衛庁を新設したのです。これには、戦前に逆戻りということで反対運動も起こっていました。

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