決戦!セヴァストボリ要塞戦
1854年、連合軍はロシア黒海艦隊の立てこもるクリミア半島のセヴァストボリ要塞を攻撃します。セヴァストボリを攻略することができれば、連合軍は黒海の制海権を得ることができました。
一方、ロシア帝国軍はあらかじめセヴァストボリを徹底的に要塞化。また、ロシア帝国軍は黒海艦隊の一部を自沈させ、連合国艦隊が要塞を砲撃しにくくなるようにしました。さらに、船に積んでいた大砲を要塞防衛に転用。水兵も防衛軍に組み込むなどして守りを固めます。
連合軍はセヴァストボリ要塞を1年にわたって包囲しますが、なかなか決着がつきませんでした。戦局が一変するのはサルデーニャ王国軍の精鋭部隊が救援に駆け付けた時です。援軍を得た連合軍は一気にセヴァストボリ要塞に突入。包囲戦で疲弊していたロシア帝国軍を打ち破り、要塞占領に成功しました。
クリミアの天使ことナイチンゲールの活動
セヴァストボリ要塞戦は両軍合わせて20万人以上の死傷者を出す激しい戦いでした。毎日のようにでる負傷者への対応も遅れがちで、後方も前線に劣らず悲惨な状態でした。このことがイギリスで報道され、世論の非難を浴びます。
イギリスの戦時大臣ハーバードは、ナイチンゲールら看護団をクリミアに派遣しました。当初、ナイチンゲールと前線の軍医たちとの間で摩擦がありました。しかし、ヴィクトリア女王がナイチンゲールからの報告を直接自分のところに届けるよう命じるなどしたこともあり、少しずつナイチンゲールが活動しやすい環境が整います。
ナイチンゲールが注目したのは病院の衛生状態でした。ナイチンゲールの報告にもとづき、衛生環境を改善したところ感染症による死者が激減します。また、ナイチンゲールは病院内の夜回りを欠かすことなく行ったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれました。こうした活躍から、彼女は「白衣の天使」「クリミアの天使」と呼ばれます。
クリミア戦争がもたらした影響とは
セヴァストボリ要塞戦の終結後、ロシア帝国軍と連合国軍は戦争を停止。1856年のパリ講和会議でクリミア戦争は終結しました。クリミア戦争は関係した国々に様々な影響を与えます。ロシア帝国では敗戦の原因は近代化の遅れと考えられ、農奴解放などが実施されました。フランスではナポレオン3世の力が増大します。
南下政策を阻止されたロシア帝国の方向転換
セヴァストボリ要塞戦に敗北したロシア帝国は、戦いを続ける力を失いつつありました。1856年、交戦国の代表がパリに集まり講和会議を開催します。同年3月30日、参加国はパリ条約を締結しました。
第一にオスマン帝国の領土保全、次にダーダネルス=ボスフォラス海峡の外国軍艦通行禁止、黒海の中立化。さらに、バルカン半島のモルダヴィア・ワラキア・セルビアの自治承認などが決められました。
パリ条約でロシア帝国はバルカン半島や黒海方面からオスマン帝国領を攻める南下政策を阻止されます。そのため、ロシア帝国の領土拡大の矛先は中央アジアや東アジアに向けられました。中央アジアへの進出も東アジアへの進出も、先に勢力を伸ばしていたイギリスと衝突することになります。特に、東アジアへの進出は日露戦争の遠因ともなりました。
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敗戦国ロシアの国内改革
クリミア戦争の最中にロシア皇帝ニコライ1世が死去したため、パリ条約を結んだのは次に皇帝になったアレクサンドル2世でした。敗戦を機にアレクサンドル2世は国内の改革に乗り出します。
1861年、アレクサンドル2世は農奴解放令を発布しました。農奴制があることで、人々の職業選択の幅が狭く、商業や産業育成の妨げとなっていたからです。農奴解放で社会がすぐに変わったわけではありませんが、ロシアの近代化や産業育成のきっかけとなったことは間違いありません。
また、県や郡ごとにゼムストヴォとよばれる地方自治機関を開設するなど、地方制度も見直します。アレクサンドル2世は教育改革や軍制改革も実施してロシア帝国の近代化を急ぎました。
しかし、急速な改革はロシア帝国内の動揺を招き、反皇帝運動やポーランド反乱などを誘発。アレクサンドル2世が武力で弾圧したため、かえって1881年に暗殺されてしまいました。それでも、戦争前に比べれば近代化は進んだといってよいでしょう。
ナポレオン3世の影響力拡大と没落
ナポレオン戦争の敗北後、ウィーン体制下でフランスの国際的地位は決して高いものではありませんでした。フランスではクリミア戦争前には2度も革命が起き、政権が交代。クリミア戦争勃発時にはナポレオン1世の甥であるナポレオン3世が皇帝となっていました。
クリミア戦争での勝利は、低下していたフランスの国際的地位を大きく引き上げ、フランス国民はナポレオン3世の政治を支持します。クリミア戦争後もナポレオン3世は積極的な外交を繰り広げました。
1859年のイタリア統一戦争ではサルデーニャ王国を支援してオーストリアと戦い領土拡大に成功します。しかし、ナポレオン3世の絶頂もここまででした。1861年から始まったメキシコ出兵では大きな成果を得られず、1870年の普仏戦争でプロイセンに敗北し、ナポレオン3世は皇帝の地位を追われました。