幕末日本の歴史江戸時代

幕末偉人「木戸孝允(桂小五郎)」とは?わかりやすく解説!

明治になり木戸孝允となる

image by PIXTA / 29955421

明治になって桂小五郎は「木戸孝允」と名前を変えます。「木戸」という姓は、第2次長州征討前に藩主の「毛利敬親」から賜ったものだったのですね。 「孝允」という名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(生前の本名・普通は亡くなってから使う名前)なのですが、明治2年(1868)大村益次郎と共に「東京招魂社(靖国神社の前身)」を建立した時に戦死した兵士を追悼してから「孝允」を公的に使うようになったのですよ。 

木戸孝允となった桂小五郎は、明治政府の中核として誰でも知っている明治政府が行ったことの中心として活躍していきます。西郷隆盛の「征韓論」に大反対したり、徴兵制などで大久保利通と対立したり、なかなか大変だったみたいですね。キレてやめたりしたのを大久保利通や伊藤博文に説得されて戻ったりしていますよ。

明治3年  参議に就任。
明治4年  廃藩置県。
明治4年  岩倉大使欧米巡回には全権副使(念願の海外へ)
明治6年  憲法制定を建言。
明治7年  文部卿を兼任。
      台湾出兵に反対し参議をやめ宮内省出仕。明治天皇の側近・補佐。
明治8年  参議に戻る。第一回地方官会議の議長。
明治9年  参議を免ぜられ内閣顧問。宮内省に出仕。

木戸孝允と西南戦争

image by PIXTA / 1734843

明治10年(1877)2月に「西南戦争」が起きます。薩長同盟の立役者のひとりだった西郷隆盛とは、実はあまり仲が良くなかったとか、西郷隆盛が嫌いだったという話がありますね。実際に明治に入ってからの西郷隆盛と薩摩藩改めての鹿児島県の方針が江戸時代と変わらない古いものだったので批判的だったようですね。

しかし西南戦争が起きた時には、すぐに西郷隆盛を助けようと西郷軍征討の任に付けさせてくれと言ったといいますよ。そして西郷隆盛の盟友だった大久保利通も西郷隆盛を思いとどまらせるための勅使として派遣されることを希望しますが、両方とも伊藤博文に反対されてしまいます

結局、明治政府の国軍として鹿児島に向かった司令官は、戊辰戦争の時に西郷隆盛と一緒に江戸へと向かった「有栖川宮熾仁親王」でした。それにともなって木戸孝允は明治天皇のお供として京都に向かいます

木戸孝允の最期

元々身体が丈夫でなかった木戸孝允は京都で倒れてしまいました。病名は公式には「胃がん」といわれていますが、丈夫でないにもかかわらず酒豪だったための「肝臓肥大」というものもありますね。また明治天皇や長州藩主の信頼が強いのと、明治政府での諸問題からくるストレスが真面目すぎる性格にかなりきていたともいわれていますね。

京都の別邸での病床には明治天皇がお見舞いに来られたりしますが、とうとう快復することができず、5月26日、大久保利通の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を最後に亡くなってしまいました。享年45(満43歳没)でした。お墓は、京都の坂本龍馬をはじめとした勤王志士たちが眠る「京都霊山護国神社」にあります。長州藩の重鎮として活躍していた自宅が「木戸神社」となっていますよ。

病弱な身体で人一倍の活躍をした木戸孝允は凄い人でした

image by PIXTA / 15857482

病弱で大人になるまで生きられないと医者である父親に言われながらも、真面目で努力を惜しまなかった木戸孝允。誰もが考えてもいなかった「倒幕」という関ヶ原以来の長州藩の悲願と、師の吉田松陰の考えを命をかけて実現しました。固くて面白みがなかったイメージが『銀魂』の桂小太郎として生まれ変わり払拭されて、愛されキャラになっているのを、あの世で笑ってみているかもしれませんね。

1 2 3 4
Share:
紫蘭