桂小五郎と長州藩
長州藩は「攘夷」を掲げていたので、つい「孝明天皇」や「水戸藩」のように「とにかく外国大嫌い、アッチへ行け!日本に来るな!」という考えだったと思いがちですが、この藩には希代の天才である吉田松陰という人がいました。この人が掲げた「航海雄略論」というものを、桂小五郎をはじめとした重鎮たちが強く推して「開国攘夷」という方針になっていくのですよ。
この「開国」「攘夷」という相反する言葉をつけた「開国攘夷」を唱えた「航海雄略論」というのはなんだったのでしょうか。それは「まず開国して外国の文化や技術を取り入れて自分たちの力として、攘夷思想の国家をつくる」という意味なんですね。
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長州藩での活躍
財政再建・軍制改革・殖産興業等の藩政改革を担当していた「周布政之助」の力で桂小五郎は藩中枢に登用され、共に開国攘夷の方針を藩に認められることになりました。またオランダ語や英語が堪能な大阪の適塾出身の医師である「村田蔵六(大村益次郎)」を桂小五郎が藩中枢に登用して藩中枢が築き上げることになったのですね。
元々留学希望だった桂小五郎を中心として画策がされて、文久3年(1863)5月8日に横浜から秘密裏に「井上馨(聞多)」「伊藤博文(俊輔)」「山尾庸三」「井上勝」「遠藤謹助」の5人が藩の公費でイギリスに留学させることができました。さぞかし自分も行きたかったでしょうね。
5月12日、朝廷からの命をうけた幕府からの攘夷決行の命令を受けて、「久坂玄瑞」を大将とした長州軍が、下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し砲撃を始めました。この攘夷戦争は外国人にすれば戦力の差がありながらも約2年も続いたことに衝撃を与えたたようですね。結局は命令した幕府がイギリス・アメリカ・フランス・オランダに賠償金を支払うことになりましたよ。この激動の5月に桂小五郎は京都に赴任させられることになりました。
京都での桂小五郎
時代劇などでの京都の桂小五郎は、乞食のような扮装で新選組から逃げ回っていて「逃げの桂」と呼ばれているイメージがつよいですね。それを陰で支えていたのが芸者の「幾松」という女性です。明治維新以後には正式に結婚しますので、支えてくれた女性は妾で、名家の娘を正式な妻にする人が多い中で、それだけでもなかなかの人だと思いますよ。さて、実際に桂小五郎は京都でなにをしていたのでしょうか?
桂小五郎と池田屋事件
京都での桂小五郎の主な仕事は、朝廷内の幕府に対して不満のある公卿を中心に、他の藩との外交・外渉でした。元々長州藩は朝廷の護衛としてのつとめが代々あったことから、反幕府的な動きがしやすかったのでしょう。しかし、長州藩が朝廷を牛耳っているのを面白くないと思う「薩摩藩」や、勤王浪士と称して不逞活動をする浪士たちと行動を共にする若い藩士たちの動きは「京都守護職・会津藩」「京都所司代・桑名藩」から目を光らされていたのですね。そして文久3年(1863)8月18日、それらの勢力によって長州藩は京都から追放したされてしまいました(八月十八日の政変)。
元治元年(1894)6月5日、そのころ「風の強い日を選んで京都に放火をして、その混乱に乗じて幕府側の公家を幽閉し、会津公たちを暗殺し、孝明天皇を長州にお連れする」というとんでもない計画がされていました。そしてその連絡役をしていた「古高俊太郎」が「新選組」の探索によって逮捕されてしまいました。その古高俊太郎を助けに行く相談をすることになったのですね。その場所を一網打尽にされたのが「池田屋事件」ですよ。
桂小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』では「会合に行ったものの時間が早かったために対馬藩邸に行って、対馬藩の外交をしていたで「大島友之允」と話をしていたら池田屋の騒動を知って駆けつけようとしたら止められたために助かった」と書かれていますが、長州藩の留守居役だった「乃美織江」の手記によると「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書いていますので、間一髪で助かったということは間違いないですね。
桂小五郎は地下に潜る
地下に潜るといってもモグラのように土の中にはいるわけではなく、ひっそりと身を隠しながら活動するということです。そうなった原因は「蛤御門の変」といわれる長州藩過激派によるものでした。
桂小五郎・周布政之助・高杉晋作たちが反対するのにもかかわらず、久坂玄瑞・来島又兵衛・福原元僴らが約300名を率いて京都に上洛して「長州藩主父子の名誉回復・長州派公卿の復権」を迫りましたが、それは幕府とことを構えたくない孝明天皇(妹が将軍・徳川家茂の正妻ということもあり)や公卿たちの思惑に、幕府側が長州藩を煽って大戦闘となったというものです。
そのために長州藩は完全に京都からシャットアウトされることとなり、桂小五郎もひとり獅子奮迅の戦いをしながらも、なんとか切り抜けて潜まざるをえなくなったのですね。そして時代劇のような生活になりますが、それも危うくなり出石蕎麦で有名な出石(兵庫県)に引きこもることになりました。現在もその屋敷は現存して一般公開されていますよ。入るとすぐに奥さんの幾松の肖像画が出迎えてくれます。
桂小五郎は長州に返り咲く
朝敵(朝廷の敵)となった長州藩に、幕府は「第一次長州征討」を命令しました。長州藩はこの危機から責任を家老の「国司親相」「益田親施」「福原元僴」を切腹させることとして恭順することに決めます。そのために尊皇攘夷の活動をしていた幹部藩士たちは自決・処刑ということになり、藩内で弾圧と粛清されることになったのですね。それに反発した高杉晋作を中心とした尊皇攘夷を掲げる「正義派」はクーデターを起こして、恭順派を追い落として、再び正義派が藩政の中心となったのですよ。
政権を取り戻した正義派の高杉晋作と大村益次郎たちは、死んだと伝えられていた桂小五郎が生きているという噂を聞いて探し、長州に呼び戻して長州藩の中心として迎えられたのでした。