室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉が得意とした水攻めは住民にとっては過酷な戦術だった

秀吉の水攻め(兵糧攻め)はどうして生まれた?

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もともと、秀吉は武将とはいえ、自身は一騎討ちをできるほど強くはなく、知略によって敵との戦いを制することを得意としていました。実戦は、蜂須賀小六などの野武士上がりの家臣や、長浜城(滋賀県)やふるさとの尾張などから集めた小姓上がりの若手武士が中心だったのです。その中には、加藤清正、福島正則、黒田長政など、賤ヶ岳七本槍といわれた後の豊臣政権を支えた若手がたくさんいました。

秀吉自身は、大戦力で城を取り囲んで、兵糧攻めや水攻めによって味方の血を流さずに戦う戦法を得意としていたのです。もちろん、敵を調略(交渉で寝返りさせる)することも得意でした。

秀吉の水攻めや兵糧攻めは誰が考えた?

秀吉の得意としたのは、人の使い方でした。信長の苦労していた岐阜城(当時は稲葉山城)の齋藤龍興攻めの際に、長良川の墨俣に一夜城を築いたのも秀吉が地元の野武士(蜂須賀小六ら)を利用したからです。また、稲葉山城攻めを成功させた、秀吉の裏山から攻めた手柄も、地元の野武士たちを手なずけたことによって可能になりました。それまで、稲葉山城を攻略した(乗っ取った)のは、油断を誘って成功した後に秀吉の軍師になる竹中半兵衛だけでした。岐阜城址は史跡になっています。

また、山陰地方の鳥取城の兵糧攻めでは、黒田官兵衛の知恵によっておこなっていました。

このように秀吉の周りには、竹中半兵衛や黒田官兵衛などの天才的な軍師が控えており、戦いよりも血を流さずに勝つ戦法を具申していたのです。

秀吉の水攻めは鳥取城の兵糧攻めがヒント

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秀吉の兵糧攻めは、山陰地方の鳥取城が初めてでした。これによって、秀吉は、以降の中国攻めでは血を流さない戦法を各所に使うようになります。すべての原点は鳥取城の兵糧攻めにあったのです。

鳥取城の兵糧攻めは悲惨な状況に

1580年(天正8年)におこなわれた鳥取城の兵糧攻めでは、城には農民などもいたため、兵糧の減り方が大きく、こもった人々は、木の幹や草なども口にしたと言われています。開城したときには、人々は餓死寸前だったと言われていますし、実際餓死した人も多数いたようです。攻める側にとっては血を流さずにすむため、お金はかかりますが、兵を失うことはありません。しかし、攻められる側は、悲惨な状態に追い込まれたのです。

水攻め、兵糧攻めは実は残酷な攻め方

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水攻めの場合には、一見、水はあるように見えますが、実際には城を囲んでいる水は泥水であり、この当時は浄水装置もありませんから、頼れるのは井戸だけでした。しかし、普段は城にいる人数は限られ、その人たちが飲むのに必要な井戸しかないため、水不足は深刻だったのです。そこに食料も底をつきますから、人々にとっては非常につらい思いをしなければなりませんでした。

特に、立てこもった武将が、鳥取城の牛尾春重のように、我慢強く、プライドの高い場合には、なかなか降服しないために、人々の苦しみは想像を絶するものです。鳥取城の惨状を知っていた三木城の別所長治は、いろいろと毛利方の支援を得て、播磨の地侍の支援も受け、1年10ヶ月の籠城をしましたが、ついに兵糧が底をつき、早めに降服しています。

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